WBA世界バンタム級チャンピオン、井上尚弥(大橋)が戦地、イギリス・グラスゴーに降り立った。18日(日本時間19日)、WBSS準決勝で19戦19勝(12KO)、同じ26歳のIBFチャンピオン、エマヌエル・ロドリゲス(プエルトリコ)との対戦まで、残り1週間。井上の肉体、そしてボクシングそのものも盤石に仕上がっている。

上写真=ロドリゲスを十分に警戒しつつも、自信みなぎる眼差しだ

 匂い立つ、ではない。放射する、でもない。だが、そこに特別ななにかがあるのは間違いない。優れたピアニストは、鍵盤に置いた指から弾く最初の一音で聴衆を夢心地へと誘い出す。格別な役者なら舞台に立ったその時点から、見る者すべての耳目を他空間から断ち切ってしまう。そんなことができる人々を表す、もっとも近しい言語は神業、それともカリスマか。いや、違う。軽すぎる。井上尚弥が表現するボクシングは、どこまでも刺激的で、さらに奥行きがとことんまで深い。

 5月3日、大橋ジムで公開された練習。イギリス・スコットランド、グラスゴーでのWBSSバンタム級準決勝でロドリゲスと対決する井上尚弥は、圧倒的な存在感を示していた。それは人間がなしうる最高地点の境地、それも臨界に近いそれに映った。

基本の構えからすでに、抜群のバランスと安定感

右肩を入れながらヘッドスリップ。しかもガードは高く、バランスは決して乱れない

 リングに上がり、なにげなくもシャドーボクシングを始める。すでに何もかもがほかとは違う。ジャブを打つ、またジャブを打つ。さらにジャブを打つ。やにわに右ストレート。切れ目なくワンツーとつなげる。力みはない。澱もない。バランスの乱れもむろんない。一瞬たりとも集中力をきらさない。スタンスを大きく変えて打ち込むときも、すぐさま次へとつなぐ動作を織り込んでる。なんという躍動感か。このシャドーはただの予備練習ではない。自らのボクシングの全景を組み立てる緻密な大前提が、くまなく網羅されていた。

 父親でトレーナーをつとめる真吾さんは言う。
「本来は明日(4日)にスパーリングをやるつもりでしたが、昨日でバッチリだったのでやめました。あとはケガだけが怖いので」

後ろから見るフォームが格別に美しい。これも井上尚弥の特長だ

 井上尚弥は今、戦士としての神域の中にある。
 ただ一点の不安があったとすれば、この日、報道陣に対して公にされたのは、シャドーと弟でWBC世界バンタム級暫定チャンピオン、拓真との2ラウンドのマスボクシングまでだったことか。それも慎重な体調管理のためだったのかもしれない。

 バンタム級世界チャンピオン、あるいは3階級制覇世界チャンピオンの先輩になる長谷川穂積氏は気持ちは理解できると言った。
「自分も公開練習がいやというのはなかったです。ただ、風邪をもらうことだけはいやでした。減量をしながら作ってきた体調ですから。ならないでいい不調をもらいたくないですからね」

画像: 「カギとなるのはジャブと距離感」(尚弥)。彼のジャブの伸びと破壊力はストレートと変わらない

「カギとなるのはジャブと距離感」(尚弥)。彼のジャブの伸びと破壊力はストレートと変わらない

 8日に戦いの場へと出発した井上は、その後10日かけて、不慣れな場所での最終調整に入る。現地の気候や風土は聞いた話だけ。時差もある。練習環境もすべてを把握しきれてはいない。それでも少なくともグラスゴーでは、万全の形で過ごしたい。

「前回は計量後のリカバリーという点で、完璧とは言えなかったですからね。炭水化物をしっかりと採れませんでした」
 失敗とまでは言えないと但し書き付きでも、今回はもっと入念に準備する。米やうどん、餅も持参する。

 このロドリゲス戦、試合が決まってから。現地入りしてからも、さまざまな海外メディアが反応したように、井上のボクシングには世界も注目している。アジアからアメリカに進出して次々に世界タイトル、ビッグマッチを勝ち抜き、一大センセーションとなったマニー・パッキャオ(フィリピン)の写し絵と期待感を高めているのだ。井上も順調にWBSSトーナメントをクリアすれば、海外からもオファーが山のように届くかもしれない。

何種類ものジャブを装備する井上尚弥。これ1本だけでも試合をコントロールできるのではないか。そう思わせるほどハイレベルなブローだ

 そのためにもこの一戦こそが一番の大事。4月27日、軽量級史上有数のレジェンド、“フィリピーノ・フラッシュ”ノニト・ドネアが、猛烈なKO勝ちで決勝進出を決めた。井上が勝てば、対戦相手になる。そのドネアがステファン・ヤング(アメリカ)を沈めた左フックにも何らの関心も示さなかった。

「ひとりのファンとして見ていました。感想はとくにないです。あの左フックが当たれば倒せると思っていましたから」

 口ぶりはどこまでも冷めていた。
 今は目前のロドリゲスとの戦いしか見えていない。
「強敵です。いつものように、あえて過大評価しています」

 リング上で対戦相手の想定外に遭遇する可能性を考えて、井上は対戦者の戦力を分析値よりさらに上積みして可能性を考える。「そうすれば、リングの上で慌てないでいいじゃないですか」。体を鍛え抜き、さらに自分の心の中まで徹底していじめ抜く。それがこの26歳の戦うための手順である。

「とにかく1ラウンドですね。KOするという意味ではなく、相手がどう出てくるかしっかりとつかみたいですね」
 いかなるケースにも対応できる。そんな井上の、自分自身に対する信頼が響いた。

「やれることは全てやった!! 完璧な仕上がりでビビる…」

 離日前、井上がツィッターに残したコメントである。

文_宮崎正博 写真_本間 暁

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