力士はもちろん行司の入門希望者は、現在、中学卒業からと当然のように定められている。しかし、戦前は徒弟制度で養成が行われていた江戸、明治の名残から、10歳にも満たない子ども行司や呼出しが存在した。俗に豆行司、豆呼出しと呼ばれていたが、小学生にして土俵に上がり、力士を呼び上げ、勝負を裁いていたのだ。

※写真上=健気な裸足行司たちの姿は人々の癒やしであったし、厳しい人生の一場面もかいま見せていた。前列左から3人目が私(当時木村春芳)=昭和21年10月
写真:月刊相撲

 長い人生には、誰にもエポックメーキングな瞬間があり、それはたいてい鮮やかな一シーンとなって人々の脳裏に刻まれている。
 相撲ファンにも必ず、自分の人生に大きな感動と勇気を与えてくれた飛び切りの「一枚」というものがある――。
 本企画では、写真や絵、書に限らず雑誌の表紙、ポスターに至るまで、各界の幅広い層の方々に、自身の心の支え、転機となった相撲にまつわる奇跡的な「一枚」をご披露いただく。
※月刊『相撲』に連載中の「私の“奇跡の一枚”」を一部編集。平成24年3月号掲載の第2回から、毎週火曜日に公開します。 

その昔、小学生の行司がいた!

 私が戦後すぐに二所ノ関部屋に入門したのも9歳のとき。初土俵は20年11月で、ところも被災し、焼け跡むき出しの旧両国国技館。「負けを見て勝ちに軍配を上げよ」とだけ教わり、「ノコッタ、ノコッタ」とやりながら、組んづ解れつ激闘する力士から逃げ回ったのだった(力士の脇についてこちらがその動きを追っていけるようになるまで、それから何十年も要した)。

 写真は翌年、後ろのきれいな窓枠でも分かるように、米軍によって接収され、内外装とも新しくして「メモリアルホール」と名前も変わった国技館の前で写されたものだ。

 11月の秋場所を前にして、少年行司がそろって、軍配さばきの稽古に余念がない風景である。前列に5人並んだ豆行司の中央にいるのが私で、ちょうど右側の兄弟子(のち源之助=高砂部屋)の軍配の下に顔がある。

 中央奥が先代玉光さん(花籠)、左の横顔が庄二郎という名で親しまれた26代伊之助(春日野)さんである。

 旧両国国技館の使用は、この後二度と許可されることなく、旧国技館での興行はこれで最後になってしまったから、余計思い出深いものがある。

“良き人生”の出発点

 当時私は10歳。ただただ「辛抱するんだよ」と諭されてこの世界に送り込まれた。来たら来たで先輩からも「辛抱」の声を聞かない日はなかった。今考えれば、いたいけな身で食事の給仕をはじめ、ただただ兄弟子の身の回りの世話に追われつつ、行司修業に明け暮れた日々だった。胸には不満ややりきれなさが詰まっていたとしても当然であったろう。

 それらの意味、ありがたさが本当に分かったのは、30数年かけて幕内にのぼり、それからまた何年もかけて立行司になり、6年有余も庄之助を名乗らせていただき、半世紀にわたる行司生活をつつがなく終わらせていただいたあとのことだ。

 数々の名力士、大力士、親方衆との出会いと親交。素晴らしい行司の大先輩から受けた啓示。そしてさまざまなファンの方々から貴重な教えと恩恵を受け続けた私の人生。

 つらいこともあったが、今の私があるのは、やはりこの世界においてもらったからこそである。素直にこう言えるようになった私が、自伝や記念の品に乞われて書き記しているのは、「厳しくも 佳き時代 良き人生」という言葉である。

 日本に生まれ、戦後-平成と揺れ動く日本の中で国技相撲一筋に生きてきた、そんな私の人生修業の出発点を懐かしく、雄弁に物語ってくれるのがこの、一枚なのである。

画像: 語り部=櫻井春芳 元29代木村庄之助(二所ノ関部屋。平成13年3月限り停年) 写真:月刊相撲

語り部=櫻井春芳 元29代木村庄之助(二所ノ関部屋。平成13年3月限り停年)
写真:月刊相撲

月刊『相撲』平成25年8月号掲載

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