今シーズンで勇退する関西学院大学アメリカンフットボール部の鳥内秀晃監督。選手たちの「負けない強さ」を育んだ指導力と、軽妙な大阪弁の語り口、厳しくあたたかい人柄で、多くの人たちを魅きつけてやまない監督の魅力を、長く取材してきた担当記者たちが綴ります。Vol.5は、鳥内監督が学生時代に「甲子園ボウル」で大学日本一を争った関東のライバル日大フェニックス出身の共同通信社記者、47NEWSのアメリカンフットボール専門WEBマガジン「週刊TURNOVER」の編集長・宍戸博昭さんです。(上の写真:武部真)

「青の関学」は「赤の日大」にとって、常に目標であり憧れの存在だった

 2学年下の鳥内監督とは、同じ時代を生きてきた。学生時代、彼がディフェンスバック(DB)、キッカー(K)として活躍した「青の関学」は、我々「赤の日大」にとっては常に目標であり憧れの存在だった。

 私が3年で出場した1978年の甲子園ボウルで、日大は関学の6連覇を阻止した。その後「フェニックス」は82年まで甲子園ボウルで5連覇を達成する。

 不遜な物言いとの批判を覚悟で振り返れば、当時は「赤」が「青」を圧倒していた。

 鳥内監督は1年から4年まで、甲子園ボウルで関東のライバルに負け続けた。指導者の道を選んだ一番の理由が「日大に勝つため」という話はよく知られている。

 私は大学を卒業後、1年間の米国留学を経て通信社の記者になった。大阪勤務になって驚いたのは、関西での学生アメリカンフットボールの人気の高さである。

 秋のリーグ戦の模様はスポーツ紙はもちろん、一般紙まで写真付きの紙面で報じていた。目の肥えたファンの前で、無様な姿は見せられない。「ファイターズ」のような名門チームならなおさらだ。

 関学が、どんな覚悟を持って関西のライバルとの対戦や甲子園ボウルに臨んでいたかを、取材を通して知ることになる。

画像: 写真:武部真

写真:武部真

「鳥内ファイターズ」は、時代に合ったチーム作りの理想型

 鳥内監督が、伊角富三氏の後を引き継いで監督に就任したのは92年。この頃は東京で記者活動をしていた私は、関西のチームの試合を見るのは甲子園ボウルだけになった。

 当時の関西リーグは京大に加え、立命館が台頭。関学がなかなか勝てない時期でもあった。当時は日大も低迷期を迎え、甲子園ボウルは遠い存在になっていた。

 晴れの舞台に出られない青と赤のOBは前日、大阪の居酒屋でよく酒を飲んだ。

 強気な鳥内監督は、酒席では努めて気丈に振る舞っていたが、時折見せる寂しげな表情に、名門チームを率いる指揮官の苦悩がにじんでいた。

 2000年代に入っても、関学は苦戦を強いられた。各ポジションにアスリートをそろえた立命館の後塵を拝し、02年から05年まで4年間は、一度も甲子園ボウルに出場できなかった。

 「勝てないのは、自分のせいかもしれない」。鳥内監督は、こう自問自答していたのではないだろうか。

 関学以上に深刻な状況だった日大に対する思いもよく聞いた。「今の日大は、おれの知っている日大とは、なんかちゃうねんな」

 春の定期戦が東京で開催される際、関学は関東地区在住のOBが主催する懇親会を開くのが恒例になっている。

 毎回お誘いを受ける懇親会には、ありがたく参加している。その席で、鳥内監督は「ひと言お願いしますわ」と言って、マイクを手渡してくれる。

 「赤と東京は嫌い」が口癖だが、ライバルの復活を誰よりも楽しみにしている人でもある。

 11年から甲子園ボウルで4連覇を達成。「鳥内ファイターズ」は時代に合ったチーム作りの理想型を世に提示した。

 学生代表として出場した日本選手権(ライスボウル)では、社会人王者の壁にはね返され続けているが「関学なら、何かやってくれるのでは」という期待を抱かせてくれる。

 ライスボウルの試合後、東京ドームで学生に自分の力不足を侘び、涙を流す姿を見る度に「鳥さんも、涙もろくなったな」と思う。

 監督として28シーズン目の今季限りで勇退する鳥さんとは、不遇の時代に愚痴をこぼし合ったあの時のように、居酒屋で一杯やりながらじっくり話をしてみたいと思っている。(共同通信社記者、47NEWSアメリカンフットボール専門WEBマガジン「週刊TURNOVER」編集長・宍戸博昭)

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