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2020-11-04

4度目の正直でついに1部昇格。1977年の読売クラブ◎J前夜を歩く第27回

1965年から1992年まで日本のサッカーはJSL(Japan Soccer League/日本サッカーリーグ)を頂点として発展してきた。連載『J前夜を歩く』ではその歴史を振り返る。第27回は異彩を放つ個性派集団、読売クラブの初昇格について綴る。

上写真=1977年当時の読売クラブ。右は今年来日で入団した二十歳のラモス瑠偉(写真◎サッカーマガジン)

文◎国吉好弘 写真◎サッカーマガジン

長く続いた上位リーグ優位の規定

 1965年にスタートした日本サッカーリーグ(JSL)は当初から入れ替え戦があった。今で言えば昇格プレーオフということになるが、現在行なわれているのは(コロナ禍の今季は開催されないが)J2の1位、2位は自動昇格し、それに次ぐ3番目のチームを決める戦い。J2の3位から6位のチームが戦って勝ち抜いたチームがJ1の下から3番目のチームと対戦する。しかし、JSL開始からしばらくの間行なわれていた入れ替え戦は、JSLの下位2チームとまだ2部がない時代には全国社会人選手権で決勝に進んだ2チームが対戦した。

 つまり自動昇格・降格はなく、それが取り入れられたのは1979年の第19回大会から。この79年も1部の最下位と2部優勝チームは自動で入れ替わるが、1部の下から2番目のチームと2部の2位は入れ替え戦を行なった。入れ替え戦が完全に廃止されて1部の上位2チームと2部の上位2チームが自動で入れ替るのは1984年からだ。

 入れ替え戦は基本的にホーム・アンド・アウェーの2回戦制で行なわれたが、2試合の合計が同点の場合は上位リーグのチームが残留した。これはかなり既存のチームに有利な規定で、2引き分けか、1勝1敗でも得失点差で劣らなければよかった。この規定ためもあって、JSLが始まってチーム数が「8」だった1971年の第7回大会まで、合計13回あった対戦(初年度は最下位のチームと社会人選手権優勝チームの対戦のみ)のうち、入れ替えに成功したのはわずか3チームのみ。社会人選手権で優勝しても、1年間リーグでもまれてきたチームを2戦合計で上回ることは容易ではなかった。

 1973年からは2部ができて1部の下位と2部の上位が争うようになるが、それでも結果の傾向は変わらず、73年からの4シーズンで昇格できたのは73年の永大産業のみ。その4シーズンで74年から3年連続で敗退したのが、読売クラブだった。

 1969年に創設された読売クは、文字通りクラブチームであり、JSLで企業チームではない異色の存在となった。社会人の東京都リーグから始まり、72年にJSL2部が立ち上がるときにはそのメンバーとなっている。無名でも腕(脚?)自慢の個性的な人材が集まり、ブラジルからやってきたジョージ与那城を中心に南米流の個人技を生かしたプレーも取り入れて、年ごとに強化された。

 JSL2部で72年は7位に終わったが、2年目の73年には3位、さらに74年には優勝を果たして意気揚々入れ替え戦に臨んだ。読売クは2部とはいえ18試合で46得点を挙げた攻撃力を誇り、すぐに1部昇格を果たすのではないかとの声も聞かれていた。相手は1部最下位のトヨタ自工。アウェーの第1戦ではPKで与えた1点を返せず、0-1で敗れた。東京へ戻って西が丘で戦った第2戦でも、立ち上がりに集中力を欠いて2点を先行され、後半に反撃したものの、2-3で敗れた。1部との試合運びの差を見せつけられる格好で昇格はならなかった。

与那城とジャイロで重たい扉を開く

画像: ついに入れ替え戦に勝利した読売クラブ。1978年3月12日、1部入替2回戦/読売2-0トヨタ(@西が丘/写真◎サッカーマガジン)

ついに入れ替え戦に勝利した読売クラブ。1978年3月12日、1部入替2回戦/読売2-0トヨタ(@西が丘/写真◎サッカーマガジン)

 翌75年もリーグでは2位ながら入れ替え戦ヘ進んだが、日本鋼管に第1戦は1-1で引き分けたものの、第2戦で0ー1と敗れて敗退。さらに76年もリーグで2位となり、今度は新日鉄と対戦。相手はJSL開設の1965年から所属する古豪だったが、個々の能力ではむしろ読売クが勝っていた。ところが、試合運びの成熟度で劣り、1-2、2-3と2試合とも1点差で敗れた。

 そして1977年、チームが解散となってリーグを脱退した永大産業から数人が加わり、戦力が向上する。特にブラジル人のジャイロの加入が大きく、与那城とのコンビで攻撃力はさらにアップした。また、DF松木安太郎、MF小見幸隆、FW岡島俊樹といったクラブで育った若手が経験を重ねて、落ち着いて持てる力を発揮できるようになった。試合運びの面で格段に成長していた。

 4年連続4回目のチャレンジの相手は、4年前に初めて苦汁を飲まされたトヨタだった。4年前と同様に第1戦は敵地トヨタスポーツセンターで行なわれた。違っていたのは、読売クのチームとしての成熟度だ。立ち上がりから攻勢をかけながらなかなか得点できず前半は0-0。しかし、焦れることなく試合を運び、50分に与那城が先制する。この得点でさらに落ち着いてプレーできるようになり、岡島が追加点を記録して2-0とし、入れ替え戦での初勝利を挙げた。

 この勝利で勢いを得ると、ホームで本領を発揮する。西が丘では与那城らの友人、知人からなるブラジル式のサンバの応援も後押しし、与那城、ジャイロが前後半に1点ずつを挙げて、この日も2ー0と快勝。2連勝で合計スコアも4-0とし、これまでこじ開けられなかった重い扉を、ついに開いた。

 読売クの力がすでに1部にふさわしいものであったことは、翌年初の1部でのシーズンを戦って4位という成績を収めたことで証明される。1980年代に入ってからも常に優勝を争った。Jリーグ初期に常勝軍団と呼ばれたヴェルディ川崎へと続くトップリーグでの活躍は、4年連続で臨んだ入れ替え戦での苦しい戦いを乗り越えたからこそだった。

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