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2020-11-10

【私の“奇跡の一枚” 連載92】両国の子どもたち人気の守護神 出世稲荷・豊国稲荷

初午の日、子どもたちは押し合いへし合いで行列しながら、開門を待ち、社内になだれ込んでお菓子をもらった。大人も負けずにウキウキと祭りの空気を楽しみ、いかに両稲荷が、両国住民に膾炙していたかが分かる

長い人生には、誰にもエポックメーキングな瞬間があり、それはたいてい鮮やかな一シーンとなって人々の脳裏に刻まれている。
相撲ファンにも必ず、自分の人生に大きな感動と勇気を与えてくれた飛び切りの「一枚」というものがある――。
本企画では、写真や絵、書に限らず雑誌の表紙、ポスターに至るまで、各界の幅広い層の方々に、自身の心の支え、転機となった相撲にまつわる奇跡的な「一枚」をご披露いただく。
※月刊『相撲』に連載中の「私の“奇跡の一枚”」を一部編集。平成24年3月号掲載の第2回から、毎週火曜日に公開します。

明治以来、大相撲を見守ってきた2社

 近代大相撲の端緒を開いた旧両国国技館の裏庭には、明治42(1909)年の開館時から2柱のお稲荷さんが並んで祭られ、両国っ子の住民の熱い信仰を集めていた。片や出世稲荷で相撲協会の守り神、こなた豊国稲荷で相撲茶屋の商売繁盛の守り神。

 縁起を大事にする大相撲だけに、日ごろから手厚く祭るだけでなく、毎年2月の初午(はつうま)の日には、大きな幟を立て、色鮮やかな提灯などで飾り付けて、近所の子どもたちにはお菓子の包みなどをふるまった。世話をするのは半纏を着た相撲茶屋の若い衆。お茶屋さんの肝入りだけに、近所に多数あったお稲荷さんと比べると絶対的な豪華版で、子どもたちはここのお祭りを何よりも楽しみにしていた。お囃子用の舞台もきちんとしつらえられており、下町の祭りというのにまことにふさわしい風景だった。

 戦後、大相撲はこの国技の本拠を使えず、都内のいくつかの仮設での興行を余儀なくされたが、昭和29(1954)年9月蔵前国技館の落成をみるに至った。しかし協会は、両国2丁目の元の場所(現在の両国コアの左隣、京葉道路に面しガソリンスタンドがある場所)にあった両稲荷の場所を移すことなく、38年12月まではここに止め、小規模ながら祭りを続けて、両国界隈の尊崇も相変わらず厚かった。

 時代も落ち着き、協会(元横綱双葉山の時津風理事長)が回向院の力塚の整備、相撲記者碑の新建碑等を進めた後、ついに蔵前国技館の裏手右奥にご遷座とあいなったのだった。両稲荷はその後現在の新国技館完成と同時に両国に移り、鳥居を含めて装いも新たに、整然と美しく入場口の左手に鎮座している。なお中央手前に置かれている手水鉢は、旧両国→蔵前→新国技館と移りながら、それぞれの時代を見守ってきた由緒あるものである(下部の寄進者名など懐かしい)。

2眼レフ、正方形の写真……

 さて、この写真は、その昔、学生時代の私が写真に凝っていた時代(昭和30年)「に、リコーの2眼レフカメラ(6×6判!)で写したものである。狭い道を行き交う人々の服装等に当時の面影がしのばれよう。画面の左側に2社があり、手前が国技館裏東側の木戸口。今思えば、この国技館の裏庭というロケーションが、我ら下町っ子の心をよりくすぐったのかもしれない。

 先日も同年代の仲間と集まったとき、「あの当時、何軒ものお稲荷さんをハシゴして、両手いっぱいのお菓子をもらったなあ。いい時代だった」と、昔話に花を咲かせたことだった。

語り部=市川博保(両国住人・自転車店経営・両国甚句会会長)

月刊『相撲』令和元年8月号掲載

相撲 11月号 11月場所展望号(No.915) | BBMスポーツ | ベースボール・マガジン社

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