close

2020-12-22

【私の“奇跡の一枚” 連載98】親方とのこの出会いと三十数年ぶり邂逅

昭和51年の夏休み、私(当時小3)が北海道で味わった僥倖! おシャレなパーマ、ショートパンツの着こなし。昔から何をやってもカッコよかった親方である

長い人生には、誰にもエポックメーキングな瞬間があり、それはたいてい鮮やかな一シーンとなって人々の脳裏に刻まれている。
相撲ファンにも必ず、自分の人生に大きな感動と勇気を与えてくれた飛び切りの「一枚」というものがある――。
本企画では、写真や絵、書に限らず雑誌の表紙、ポスターに至るまで、各界の幅広い層の方々に、自身の心の支え、転機となった相撲にまつわる奇跡的な「一枚」をご披露いただく。
※月刊『相撲』に連載中の「私の“奇跡の一枚”」を一部編集。平成24年3月号掲載の第2回から、毎週火曜日に公開します。

憧れの北の富士さん

第52代横綱で現在はNHKの大相撲中継の解説者である北の富士勝昭さんと当時小学校3年生の9歳だった私とのツーショット写真である。物心ついたときから相撲が好きでリアルタイムで見た最初の横綱だった。

残念ながら全盛時の記憶はないが小1のとき私は、横綱北の富士関が3場所連続休場明けから再起を期して出場した昭和49(1974)年名古屋場所のテレビ中継を固唾を呑んで見ていた。しかし、初日は旭國に切り返しで敗れると翌2日目も大関から陥落してこの場所は関脇だった大受に押し出されて連敗。この一番を最後に引退を表明して年寄井筒を襲名された。

この写真は親方(取材のとき等、普段からこう呼ばせていただいています)が34歳のときで現役を引退してから2年後の昭和51年夏。場所は札幌市の円山公園に隣接する北海道神宮。親方率いる井筒部屋が同所で稽古合宿を行っていたときのものだ。

子どものころの私は毎年、夏休みの大半を親戚の住む札幌で過ごしていた。昨今のように30度を超える日などなく、からっとしていて涼しく快適でまさに避暑地だった。親戚の家は円山公園にほど近かったので朝はよく散歩に出かけていた。するとある日、木々が生い茂る向こうに土俵らしきものが見えた。「こんなところで?」と思いながら近づいてみると黒廻しの力士ばかりが汗を流していた。しばらく稽古を見ていると体格のいい男性が颯爽と現れた。「あっ、北の富士だ!」と私ら親子は思わず声を上げた。

以来、毎日ここで朝稽古を見学することが日課となった。何日か通って親方に一緒に写真に納まっていただいた。さまざまな相撲文献によると、このときの合宿で当時、中学1年生だった八角理事長(元横綱北勝海)がスカウトされたそうだが、残念ながら(!?)私にはそういったハナシは一切なかった(笑)。

すべてが良き因縁……

それから33年後の平成21(2009)年、親方の著書を出版するので構成を手伝ってほしいという話が全く面識のない出版社から舞い込んできた。編集担当者によると相撲に関する拙著のあとがきを読んだ社長の意向だという。もちろん、二つ返事で快諾させていただいた。社長以下、親方、編集者とのお初の顔合わせのとき、この写真を親方に見てもらうと懐かしそうに目を細めていた。以来、現在に至るまで親方とは取材をはじめ、公私にわたりお世話になっている。

親方が現役を引退した昭和49年当時、“モロ差しの名人”元関脇鶴ケ嶺をはじめ個性派力士を多数輩出した名門井筒部屋は消滅しており、系統は違うが親方が井筒を名乗り、九重部屋から独立した。かつての名門は稀代の名横綱によって復活したが昭和52年10月、九重親方(元横綱千代の山)が51歳で死去したことで、井筒だった親方が九重を襲名して部屋も継承。君ヶ濱部屋を興していた元鶴ケ嶺が名跡を変更して井筒部屋となり、元の鞘に収まった。こうして、双方の部屋は伝統が復活したのだった。

語り部=荒井太郎(大相撲ライター)

月刊『相撲』令和2年2月号掲載

相撲 12月号 11月場所総決算号(No.916)

タグ:

PICK UP注目の記事

PICK UP注目の記事