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2021-02-09

【私の“奇跡の一枚” 連載101】「焼土からの復活劇」国技への愛情、不屈の闘魂……

この場所(昭和20年6月。晴天7日間興行)、横綱土俵入り参加者以外で大銀杏を結った力士は、優勝者備州山大八郎(7戦全勝。東前頭筆頭。荒磯部屋。本名三谷順一。広島県出身)だけだった

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負けてたまるか!

今、我々は新型コロナ・ウィルス感染の驚異的拡大を受けて、かつてない危機に瀕している。日本相撲協会は令和2(2020)年大阪春場所を、無観客場所として一丸となって乗り切り、明るい明日への夢を見事につないだ。しかし一方でにっくきウィルスの浸食はやまず、今や世界中が、戦々兢々の状態に陥っている。もちろん我々はこんなものに負けるわけにはいかない。

これと似た時代が……。それは70数年前の終戦前の状況とよく似ている――。

戦後すぐに(昭和21=1946年)野球雑誌(『ベースボール・マガジン』)を立ち上げ、出版事業を軌道に乗せた小社は、親方衆、力士たちの強い要望もあって相撲雑誌の発行に踏み切った。以来相撲ファンのための雑誌として、国技の真価を生き生きと伝えると同時に、大相撲の世界を側面から盛り上げ続けてきた。昭和27年には「日本相撲協会機関誌『相撲』」のロゴをも受け継ぎ、さらに喜びも悲しみも相撲界とともにすることに――。

そして相撲界が一つの激動を乗り越え、昭和31年、史上空前の栃若時代を迎えたとき、満を持して増刊『写真戦後相撲十年史』を発行した。

巻頭には空襲の危険をおして敢然と挙行された、非公開の夏場所の優勝者備州山が賜盃を手にした写真を掲げ、以下のようなプロローグをもって、一つの勝利を高らかに告げたのだった――。『相撲』の編集のために命をかけてきた我々の先輩たちの、思いの熱さがよく分かっていただけると思う。

「栃若時代」の勝利宣言

「相撲の街、両国界界隈が米軍の空襲で焼土と化したのは、20年3月9日から10日にかけての夜で、国技館と一切の相撲部屋も焼きつくされ、年寄西岩(先代射水川)、豊島、松浦潟の名力士をも喪った。

しかし、さらに激化する空襲と敗戦色の濃化も、国技不滅を信じ、あくまでもこれを守り続けんとする敢闘の志を阻むことは出来なかった。

最初予定の明治神宮外苑相撲場が空襲のため挙行困難になったあと、6月7日から7日間、屋内から晴天を仰いだ国技館で、非公開のまま決行された。

この場所、前頭筆頭の備州山は奮戦激闘、ついに全勝優勝の栄誉を飾った。

戦後既に十数年の相撲界は、いまや史上かつてみない隆盛を誇るが、その源は、焼土の中に闘った不屈の斗魂にある。」

賜盃あってこそ

以上のように、大きな思い入れを込めて、この記念写真を復活の原点、象徴として掲げたのだった。

一方でこの写真には、大事な賜盃損傷の危険を避けるべく、千秋楽当日ではなく、後日大銀杏、締め込み姿に身を整えておいたうえで素早く撮影された、というエピソードが残されている。いつ空襲あるかもの危機のなか、撮影を終えた賜盃は「すぐさま相撲協会の秘密の大金庫の奥深くしまい込まれた」(小島貞二)という。

令和の今日、新型ウィルスに打ち勝ち、近い未来に再び大相撲に輝かしい時代がやってきたとき、誰のどんな写真が復活の象徴として、表紙に、巻頭に用いられることになるだろうか。

語り部=下家義久(編集部)

月刊『相撲』令和2年5月号掲載

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