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2021-02-16

【私の“奇跡の一枚” 連載102】力士と疫病について 大正期の“相撲風邪”に異議?あり

世間のスペイン風邪騒ぎをよそに、大きなにぎわいを見せた大正8年夏場所(於靖國神社)土俵上。実際、このとき力士に感染者がいないことは伝えられていない

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長い人生には、誰にもエポックメーキングな瞬間があり、それはたいてい鮮やかな一シーンとなって人々の脳裏に刻まれている。
相撲ファンにも必ず、自分の人生に大きな感動と勇気を与えてくれた飛び切りの「一枚」というものがある――。
本企画では、写真や絵、書に限らず雑誌の表紙、ポスターに至るまで、各界の幅広い層の方々に、自身の心の支え、転機となった相撲にまつわる奇跡的な「一枚」をご披露いただく。
※月刊『相撲』に連載中の「私の“奇跡の一枚”」を一部編集。平成24年3月号掲載の第2回から、毎週火曜日に公開します。

流行病と大相撲

令和2年の春ごろから諸外国で流行が始まり、4月には世界中に一気に感染が広がった新型コロナウィルスは、日本にも押し寄せ、多くの発病者が出て尊い命が失われ、いまだに予断を許さない。歴史が示すように、日本でも古来から様々な疫病が流行してきたが、ここで改めて江戸時代以降の流行病(はやりやまい)と大相撲について略記したい。

力士とインフルエンザ――まず思い浮かべるのは第4代横綱谷風梶之助だ。寛政期の相撲黄金時代を築いた「古今無双の大力士」。その谷風が寛政7(1795)年正月9日に、前年から流行していた流行性感冒(インフルエンザ)によって帰郷先の仙台の実家で急逝(数え46歳、満44歳)。

そこで当時の人々の英雄・谷風の命を奪った風邪を人々は“タニカゼ”と呼んで恐れたと伝えられているが、史実的には6~7年の風邪は『御猪狩風』(おいかりかぜ)が正しい。

また第3代横綱と公認されている丸山権太左衛門も、流行病(赤痢?)のため巡業先の長崎で不帰の客となった(寛延2=1745年11月14日没。数え37歳)。

江戸時代は現代と違って医療制度が整っていないため、風邪、麻疹、疱瘡(天然痘)、コレラ、赤痢など、いったん流行すると世の中が混乱し、死者も多く出ることが多かったのである。

市中の流行病が本場所興行に影響を及ぼした実例は少なくなかったが、江戸相撲では享和3(1803)年3月場所を途中で打ち切った。この場所は番付面に「三月二十日より」とあるが、実際には4月6日初日で、6月10日に7日目まで中止となった。理由は江戸市中麻疹(はしか)が流行したためであった。

コレラは当時、“ころり”と呼ばれ恐れられた伝染病。安政5(1858)年、コレラが、江戸市中に流行った。多くの命が失われたが、角界でも犠牲者が出た。

幕内の宝川名五郎(同7月18日没)、幕下二枚目の万力和蔵(元同十枚目格)は同8月26日に鬼籍の人となった。なお、安政5年11月場所は、番付が発行されたが、江戸大火のため興行中止。

明治19(1886)年に東京市中に流行したコレラで東京相撲会所(相撲協会)の取締役(現在の理事長格)の年寄根岸治三郎が不幸にも感染して、8月8日に急逝した。

天然痘――疱瘡も根絶された病気であるが、明治・大正期にも流行したこともあり、罹った力士も出ている。

大正期の“スペイン風邪”

大正7年から9年ごろにかけて世界的に流行したスペイン風邪は非常に猛威を振るい、国内の死者は38万人とも45万人とも推され、世界で2000万人から4500万人が亡くなったと言われている。角界では同7年4月に当時日本統治下の台湾で、折から東京大阪合併巡業の際に、第一弾の形で力士が感染・発病して3名の犠牲者、10名余りの入院者が出たと報道された。そのためこのときも“相撲風邪”を呼ばれたが、実はその力士の病名には諸説があり、にわかにスペイン風邪とは断言できない。

大正7年から8年の4場所、東京相撲は前年の国技館消失のため靖国神社境内で開催された。春夏(1月・5月)の本場所、このとき屋外の晴天興行に、毎場所大勢の好角家、大衆たちが来場、人気を集めた。しかしこのときには力士からスペイン風邪の感染者はほとんど出ていない。

時代は飛んで、昭和54(1979)年にA型肝炎騒動があり、平成21(2009)年には新型インフルエンザの流行が角界にも影響を及ぼした。

今回の新型コロナウィルス騒動により、春場所の無観客による開催、夏場所諸行事の中止、と続く試練の中で、好角家は大相撲の存在の重要さを改めて痛感しているが、ストイックなほどの自粛に努めていた当の力士からついに犠牲者が出たことは痛恨の極みである。(合掌)

語り部=小池謙一(相撲史研究家)

月刊『相撲』令和2年6月号掲載

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