長い人生には、誰にもエポックメーキングな瞬間があり、それはたいてい鮮やかな一シーンとなって人々の脳裏に刻まれている。相撲ファンにも必ず、自分の人生に大きな感動と勇気を与えてくれた飛び切りの「一枚」というものがある――。本企画では、写真や絵、書に限らず雑誌の表紙、ポスターに至るまで、各界の幅広い層の方々に、自身の心の支え、転機となった相撲にまつわる奇跡的な「一枚」をご披露いただく。
※月刊『相撲』に連載中の「私の“奇跡の一枚”」を一部編集。平成24年3月号掲載の第2回から、毎週火曜日に公開します。
両国に大相撲が戻った!大相撲を何としても伝統『両国』の地に、という情熱を持ち続けていた相撲協会が、新国技の殿堂・国技館を、台東区蔵前から両国駅に隣接する国鉄操車場の跡地(墨田区横網)に完成させたのは昭和60(1985)年1月のことだった。
歴史が古い一方、なかなか時代の波についていけず、都心のエアーポケットと揶揄されることもしばしばだった両国の地に、突如として現れた緑の屋根の巨大な新国技館は、のほほんとした下町の印象を一変させた。
そして新国技館は、千代の富士の充実、若貴ブームと、新たな建造物人気と歩を揃えたように、空前の大相撲人気を巻き起こした(その裏には、新国技館の土俵にふさわしい相撲をと誓った、力士や親方衆の大変な努力があった……)。
写真は59年秋に、その裏手、亀沢町側の清澄通りから見た完成間近の国技館風景である。手前の広い空き地は、東京都中央卸売市場江東市場(青果市場。通称“ヤッチャ場”)跡。その先にもものの見事に国技館が浮き上がっている。
ここからは後方(東・錦糸町方向)にドーンと道が広がっている。江戸の水運の名残の堀割、つまり我が亀沢町を東西に走る南割下水の跡だ。そのだだっ広い通りに面した家のほとんどは鉄工場かメリヤス工場だった。だからなんの愛想も(歩道すら)なかった。通称『割下水』通り(もしくは『ヤッチャ場通り』)。しかしその印象が、新国技館建設によって一変したのだ。
長いこの通りから眺める国技館はまさに絶景。葛飾北斎にも負けぬ遠近法の世界が広がり、我々亀沢町民を勇気づけてくれるようになった。
不撓不屈の象徴・国技館国技館の正面風景はよく隅田川方面の高いビルからのカメラで、マスコミによって遠景まで紹介される。長年観察していると、当初はそれこそ、国技館のほかに何も見当たらなかったものが、年月を経るにつけその周辺に巨大な建物が雨後の筍のごとく増えて来ているのに驚かされる。国技館より目立つようにとのコンセプトで作られたような江戸東京博物館に始まり、遠くはスカイツリ―、令和2年は北側に隣接する白亜のアパホテルまで。
いま亀沢地区には、八角、錦戸部屋があり、ちょっと足を伸ばせば片男波部屋、九重部屋、高砂部屋がある。相撲の神様を祭る宿禰神社も『北斎通り』と名前を替えた割下水沿い。下町両国の大相撲への応援態勢もばっちりだ。
しかし世界的な新型コロナウイルス禍に見舞われるなか、力士の技量審査、発表の場である本場所開催が様々な困難、試練を余儀なくされている。春の無観客場所、夏場所の中止――。そして次に迎えるのは、移動やその他のリスクを考え併せての名古屋から東京に土俵を移しての本場所開催である。
稽古がどんなにつらくとも、ひたすら汗を流すことができさえすれば、目の前が晴れてきた力士たちだが、今回はそれすらままならないなかで、自粛に努めつつ闘っている様子。彼らの苦しさは察してあまりある。
国技の長い歴史を振り返っても、力の士(もののふ)たちは、災い転じて福となす――いくら転がされようと、それこそぶつかり稽古のようにたくましく立ち上がり、ファンの憧れとなり続けて来てくれた。国技館を象徴に、明治・大正・平成と苦難を乗り越えてきたそんなたくましさが、令和の相撲界にも脈々と受け継がれていることを私は信じてやまない。国技館の土俵自体は無観客でも、全国のファンは力士たちが元気に闘う姿を、それこそ『満員御礼』のテレビ桟敷で待っている。
語り部=鈴木貞雄(亀沢町会)
月刊『相撲』令和2年7月号掲載
白鵬の脳内理論 9年密着のトレーナーが明かす 「超一流の流儀」(白鵬 翔/監修 大庭大業/著)