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2021-04-20

【私の“奇跡の一枚” 連載107】『歴代横綱連名』時を超え受け継がれる番付字

平成12年1月号付録のポスター。一時は東京のエアポケットと揶揄された両国が、再開発によりバックの新国技館周辺の様子が次々に様変わりしていく――

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長い人生には、誰にもエポックメーキングな瞬間があり、それはたいてい鮮やかな一シーンとなって人々の脳裏に刻まれている。
相撲ファンにも必ず、自分の人生に大きな感動と勇気を与えてくれた飛び切りの「一枚」というものがある――。
本企画では、写真や絵、書に限らず雑誌の表紙、ポスターに至るまで、各界の幅広い層の方々に、自身の心の支え、転機となった相撲にまつわる奇跡的な「一枚」をご披露いただく。
※月刊『相撲』に連載中の「私の“奇跡の一枚”」を一部編集。平成24年3月号掲載の第2回から、毎週火曜日に公開します。

2代3代容堂揃い踏み

新型ウイルスによる感染拡大は、世界中に深刻な変容をもたらした。日本の相撲界も例外ではなく、専門家のアドバイスを受けながら、誠心誠意現実と向き合い、ストイックなまでの対処を重ねている。一方そこから来る制約、困難もなんのその、工夫を凝らし毎号を編んでいる相撲専門誌の皆さんのご苦労には、私も長年の愛読者として大いに敬意を払っている。

そんなさりげない工夫の一つが『相撲』7月号(名古屋場所展望号)特別付録の大型ポスターだ。夏場所が中止になったことにより、名古屋場所の地位は夏場所発表のまま。いつもの展望号と違い番付が付録につかないということもあったのだろう。本誌はコロナ克服の意味も込めて、現在の番付の書者である3代目容堂君に歴代横綱一覧の揮毫を依頼し、両国国技館全景の写真と組み合わせた美しく豪華なポスターを製作したのだった。その書は丁寧で美しく敬虔な祈りに満ちており、初めて見たとき、私は、「うーん、これは立派だ」と私は思わずうなってしまった。

実は、2代目容堂でもあり、番付の書き手でもあったった私も、その昔同じような形で発表させていただいたことがある。西暦2000年突入を記念する平成12(2000)年の新年号の閉じ込み付録として――。折柄私が立行司として土俵に専念するために、番付担当から外れたときにあたっており、それまでの修業の集大成のつもりもあった。

それから20年の時を重ねて二人の容堂の揃い踏み!?が今回奇しくも実現したのだった。

祈りを込めた相撲字

今の容堂君の相撲字の資質は、下のころから際立っており、私は恵之助(当時)の幕下昇進を待って、彼の番付担当助手入りを協会幹部に直訴した思い出がある。

さて、番付の版下は元書きといい、実物の4倍ほどの大きさのケント紙に書くのだが、間違いのないようにすることはもちろん、丁寧に、伝統の相撲字書風の骨格、構成、イメージに則り、限られたスペースを隙間なく埋めるように、力強く、書き進めていかなくてはならない。番付屋としてはただ相撲字でやたらに極太に隙間なく四股名を書けばいいというのではなく、製品になったときに字の隙間がつぶれて見えなくなることのないような程の良さ、手加減、気遣いも、必要なのだ。

彼が平成19年11月、前任者の與之吉君の後を受け初めて番付筆者を務めたときの出来栄えを見て、私は自分が初めて番付を書いた時よりずっとうまいという印象を受けた。そして彼を番付製作担当の後継者と見込んだ自分の眼に間違いはなかったと確信したのだった。その後も彼は少しずつ進歩を続け、伝統世界にまた新しい境地を開き始めている。

彼の真面目で几帳面な性格、向学心は相撲字ばかりでなくもちろん本業の土俵上でも生かされている。日ごろの精進も怠りなく、いま三役格行司としても見事な裁きを披露しているのは皆さまご存じのとおり。

ついでだが、時代の進展を受けて、昭和60(1985)年に建築成った新国技館周囲の風景も、周辺が大きく変貌を遂げている。後ろ隣に江戸東京博物館、平成を迎えその横手には両国第一ホテル。遠目に高く東京スカイツリ―を眺めつつ、今年は隣に白亜のアパホテルもそびえ立った……。

ここ20年で『歴代横綱』にも67代武蔵丸に続き朝青龍、白鵬、日馬富士、鶴竜、72代稀勢の里の名が加わっている。3代目容堂君の筆が73代目として新たに付け加えるのはどんな四股名だろうか。両国周辺の再開発とともに、大相撲の伝統がいよいよ輝いていく様子が、OBとして何としてもうれしい。

語り部=鵜池保介(30代木村庄之助/2代目容堂)

月刊『相撲』令和2年12月号掲載 

※『私の“奇跡の一枚”』は今回が最終です。令和3年以降は連載中の本誌『相撲』でご覧ください。

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