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2021-06-16

最後の長野開催で見せた進化。日本選手権混成連覇の中村明彦「新たな十種競技を完成させ、再び世界大会へ」

日本選手権混成で2大会連続4度目の優勝を飾った中村(撮影/中野英聡・陸上競技マガジン)

6月12~13日、長野県で開催された日本選手権混成競技。
中村明彦(スズキ)が7833点で大会連覇を飾ったが、2大会連続の五輪出場を逃した。
長野開催となって10年、そのすべてに出場し、十種競技のトップ選手に上り詰めた。
その過程における試行錯誤の末に、オールラウンド型へと変貌を遂げた姿を見せた。

 10回目の長野で10種目を終えた中村明彦(スズキ)。その頬を何度も涙が伝った。

 2年連続4回目の優勝を果たしたが、7833点の記録では3大会連続となるオリンピック出場は絶望的で悔しさがあった。しかし、昨年生まれた子どもの前で初めて優勝することができて、ホッとした気持ちもあった。

 長野で行われる日本選手権混成としては、今年が最後の大会になる。「たくさんの思い出がありますし、自分を成長させてくれた場所」と中村。その間、恩師の本田陽コーチを2018年にガンで亡くしている。10種目、10年間分以上の思いが中村の胸に込み上げてきた。

 最後の長野で投てき2種目の自己新を出し、スピード型からオールラウンド型への変身に手応えを得ることができたことは、中村にとって大きなことだった。


最後の長野開催、10年分の思いがあふれ、中村は涙をこらえきれなかった(撮影/中野英聡・陸上競技マガジン)

スピード型デカスリートとして開花

 中村は神奈川・等々力で開催された10年と11年の日本選手権混成にも出場はしているが、2年連続5位で得点は7000点台前半だった。

 3回目の出場が長野開催最初の12年大会だった。前年、日本人初の8000点台(8073点)に乗せた右代啓祐(国士舘ク、当時・スズキ浜松AC)に食らいつき、7710点の2位と躍進した。8037点で3連覇した右代との差はあったが、初日は4120点と好調の右代を上回った。100 mと400 mで得点を稼ぐスピード型の十種競技選手として、将来を期待され始めたのが長野だった。

 特に400 mのタイムは47秒17と、個別種目としても高いレベルの記録で走った。その勢いを1週間後の(混成競技以外の)日本選手権に持ち込み、400 mHで49秒38の2位となってロンドン五輪代表入りを決めた。

 中村は当時のスタンスを次のように語った。

「スプリント種目は全部(種目別1位を)取って、投てきはうまく陰に隠れて、跳躍でまたちょっと勝負できるところを出す。そのスタイルで、がんがん上に食い込んでいってやろう、という気持ちで臨んでいました」

 ロンドン五輪では予選落ちしたが、右代が満員のスタンドの注目を集める中で十種競技を行う姿を見て、自身も十種競技選手としてオリンピックを戦いたい気持ちを強くした。

 14年日本選手権で初の8000点台(8035点)をマークすると、同年アジア大会、15年世界選手権、16年リオ五輪、17年世界選手権、18年アジア大会と、右代と2人で日本代表として戦い続けた。

 記録的には、リオ五輪十種競技代表を決めた16年日本選手権で8180点をマークした。右代が14年日本選手権で出した8308点の日本記録に次ぐ日本歴代2位(8000点超えの日本人は2人のみ)。100 m10秒69、走幅跳7m65、400 m47秒82、110 mH14秒12と900点を超える高得点をマークし、スピード型デカスリートとして素晴らしいパフォーマンスを発揮していた。

苦しみ始めたリオ五輪後

 しかし、中村は「リオ五輪以降、きつくなり始めた」と言う。

「守りに入っていたわけではないのですが、自分で自分を苦しめていた部分もあったのかな、と思います」

 17年は7873点、18年は7849点、19年は7837点とシーズンベストは停滞する。日本選手権は17年こそ右代に競り勝ったが、18、19年と競り負けている。右代が台頭する以前なら7800点台は好記録だが、世界と戦うことを考えれば7800点台では物足りない。

「スプリント系種目の記録は更新できなくても、十種競技としての自己新は出していきたい。跳躍種目はキープできていましたが、投てきが思ったほど伸びてきませんでした。投てきを練習しないといけないけど、スプリントもやり続けないと下降曲線が激しくなるんじゃないか。そのジレンマの中で十種競技のトレーニングを、時にはぐちゃぐちゃになったり、時には自分なりにこうじゃないかと、コーチと相談しながらやってきました」

 中村と本田コーチは停滞を打ち破るために、スピード型からオールラウンド型への変貌を、より強く模索し始めた。

「本田先生から伸ばせるところまでスピードをつけ、最終的にはパワーとテクニックをつけて十種競技を完成させよう、と言われていました。スピードが出せなくなっても、パワーとテクニックがつけば、長い間戦える。本田先生の提案に乗ってやってきました」

 その成果が今年の日本選手権で形になり始めた。

10回目の長野の戦い

 10回目の長野大会初日は好天に恵まれた。

 100 mの10秒77(+0.9)は自己記録と0.11秒差。走幅跳は7m36(+2.8)で自己記録とは30cm差だが、100 mに続いて900点台を確保した。そして砲丸投で12m84と自己記録を37cm更新。初めて長野で戦った12年から90cmも伸ばしてきた。

 だが、走高跳は1m94と2mに届かなかった。5月の鹿児島の大会で足首を痛めた影響が、多少残ってしまっていた。そして初日最後の400 mは49秒38で、以前のように900点超えはできなかった。

 2日目の天候は一転、午前中は雨に見舞われた。

 100 mHは14秒34(-0.6)で、自己記録には0.28秒足りなかったが931点と高得点を積み上げた。だが円盤投は、円盤を持つ部分が濡れると記録に大きく影響する。34m81と自己記録から3m72もショートした。

 だが、棒高跳時には天候も回復し、4m80とまずまずの記録を跳んだ。そしてやり投では56m18と自己記録を1m66更新。2種目で自己新を出すほど投てき種目が好調だっただけに、雨の円盤投が悔やまれたが、そこに対する恨み言を一つも発しないのがデカスリートである。


今大会は砲丸投、やり投の投てき2種目で自己記録を更新。オールラウンド型への進化を実証した(撮影/中野英聡・陸上競技マガジン)

 10種目めの1500mは、この種目を同じように得意とする清水剛士(三重陸協)の後ろを走れば確実に優勝できた。だが中村は、スタート直後から先頭を走り続け、最後の最後で原口凜(国士大4年)に抜かれたものの、2番目でフィニッシュした。

 1500mは4分29秒03と自己記録から20秒も遅れた。400 mと1500m。スピード持久力が低下していることを露呈してしまったが、投てき2種目で自己記録を更新し、棒高跳でも過去一番硬いポールを使うことができた。100 mと110 mH、ショートスプリントも力を維持している。



 スプリント系は冬期に、多田修平(住友電工)や白石黄良々(セレスポ)を指導する大東大・佐藤真太郎コーチからドリルなどのアドバイスを受け、「鋭さが以前のレベルに戻ってきた」という実感がある。ウェイトトレーニングを「きっちりセットを組んでやって来た」ことや、右代から教わったトレーニングを「半年間継続してきた」ことが投てき種目の結果につながっている。

 そしてスピード系とパワー系を両立させるために、試合前2週間くらいの練習を「1日練習して1日休む練習サイクル」に変更した。「1日の練習でボリュームを確保しつつ、最大出力のトレーニングをした」ことで両立を可能にした。

「オールラウンド型として、新たな十種競技を目指していける実感を得られました。シビアになってくることは分かっていますが、この十種競技を完成させ、パフォーマンスを発揮できたらまた、8000点台や自己新も期待できます。そうすればまた、世界大会も見えてくる」

 スピード型十種選手として鮮烈にデビューした長野で、10年後にオールラウンド型として新たな自身の姿が見え始めた。

「本田先生は『オレが言った通りだろ』と言われているんじゃないかと思います。きっと、自分が引退するまで天から見守っていてくれる。本田先生に、『よくやった』と言われるデカスリートを目指します」

 中村は長野の後も、10種目に挑み続ける。

文/寺田辰朗

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