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2021-08-02

女子やり投日本記録保持者の北口榛花が初の五輪に挑む。東京五輪はステップアップのための「特別な舞台」

6月の日本選手権で2度目の優勝を飾り、北口は初の五輪出場を決めた(写真/Getty Images)

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女子やり投代表の北口榛花(JAL)は、「メダル獲得を目標に頑張ってきた。特別な舞台で最高の実力を出せるように頑張りたい」と抱負を話す。北口は2015年世界ユース選手権(現・U18世界選手権)で優勝したエリート選手。日本投てき界の期待を担って成長し、6年後の東京五輪では女子フィールド種目唯一の代表となった。記録的にも19年に日本記録を2度更新し、66m00と世界レベルに達している。こう書くと順風満帆のように思えるが、北口は苦しみ、試行錯誤をしてきた期間の方が長かった。

 世界ユース金メダリストの苦悩

 北口は世界ユース翌年の16年から、早くも苦しい時期に入った。

 16年5月に61m38の自己新を投げたところまでは順調だった。リオ五輪標準記録の62m00も手が届きそうだったのだ。


 だが、その頃からヒジに痛みが出て、7月には地元北海道の試合で60m84を投げたが、標準記録には届かなかった。故障の影響で世界ジュニア(現・U20世界選手権)も52m15で8位に終わった。

 大学2年時には61m07、3年時には60m48がシーズンベスト。自己記録から1m以内は投げていたのだから、低迷ではない。だが、国内大会でも勝負どころで敗れ、世界選手権やアジア大会の代表を逃した。世界ユース金メダリストとしては不本意だっただろう。


北海道・旭川東高3年時の2015年世界ユース選手権で金メダルに輝いた(写真/Getty Images)

「いろいろあって、どうしたらいいのか分からなくなっていました。一番ひどかったのは18年の日本選手権(12位・49m58)前でした。ご飯を食べられなくなって、体重が5kg減りました」

 その頃の北口は弱音も、口をついて出てしまっていた。大学2年時の17年シーズンから、コーチ不在となった。予定外の展開で長期的な強化プランが大きく狂ったのだろう。「コーチがいないから…」とぼやいたことが何度かあった。

 17年はサニブラウン・アブデル・ハキーム(タンブルウィードTC)が、世界選手権ロンドン大会200 mで7位に入賞した。学年は1つ下だが、同じ世界ユースで優勝した選手で、陸連のダイヤモンドアスリートとして研修も一緒に受けていた。海外のチームに身を置くサニブラウンに対し、「ハキーム君は海外に行けていいなあ」とこぼしたこともあった。北口も元々、海外指向の強い選手だったのだ。

 しかし北口は、転んでもただでは起きなかった。コーチ不在になったことへの不満と、海外を拠点に強化するサニブラウンへの羨望。その2つを一気に解消する行動をとった。大学3年の冬期から、男女やり投の世界記録保持者を輩出したチェコにトレーニング拠点を確保し、チェコ人のコーチから指導を受ける環境を自身が中心になって構築した。

 おそらく北口の、吸収する力が大きくなったのだろう。日大の(やり投が専門ではない)コーチや、先輩たちのアドバイスへの理解力も、並行して上がっていった。

 19年5月に64m36と日本記録を56cm更新すると、10月には66m00のビッグアーチを架けた。シーズン世界7位、アジア歴代4位という国際レベルの記録だった。

リモート指導を受ける難しさ

 もちろん、チェコ人のコーチをつけたからといって、すべてがうまくいくわけではない。19年も7月のユニバーシアード(2位)後、9月末の世界選手権ドーハ大会までチェコでトレーニングを積んだが、予選を14cm差で通過することができなかった。万全の体調に仕上げられなかったのだ。

 新型コロナが蔓延した期間は、リモートでの指導を受けるしか方法がなかった。今年4月になって対面での指導を受けられるようになったが、リモート期間は言葉の違いや、技術指導をすぐに受けられないことの弊害があったという。

「チェコ語を完全に理解できていないので、英語に翻訳して、その言葉で思いつくトレーニングをしていましたが、コーチの意図どおりのトレーニングにはなっていませんでした。技術的に違うことをやっていたことも多々ありましたね。時差の関係でレスポンスが遅く、次に投げるまで、(どう修正するか)自分で考えないといけなかった」


これまで各年代の世界大会に出場してきた北口。シニア初の国際大会となった19年ドーハ世界選手権は14センチ差で決勝進出を逃した(写真/Getty Images)

 試合数も限られ、試合で判明した課題を次の試合までに解決する北口のスタイルも、十分に機能しなかった。20年9月の全日本実業団は63m45の好記録で優勝できたが、10月の日本選手権は59m30で2位。3週間後の木南記念も58m36の3位と、やりは伸びなかった。

 今年も4月から6月までチェコでトレーニングを積んだが、チェコとドイツで出場した3試合は54~57m台と低迷した。

「盛大にやらかしたので、どうにかします」

「やらかしたというより手探り中」

「ちょっといつもより時間がかかりそうなので、気長に待っててください」

 北口のツイッターには一見、弱気とも受け取れる言葉が並んだ。

2シーズン続けて助走歩数を変更する理由

 北口は五輪代表に内定した日本選手権終了後の会見で、メダルへの意欲を口にしていた。

「オリンピックでは3投までに、(日本選手権の61m台より)もっと投げていきたい。それができればメダルも夢じゃありません」

 3投目までに63m以上を投げ、ベストエイトに入ってさらに記録を伸ばしていく。記録は気象条件に左右されるが、リオ五輪とその後2回の世界選手権では、65m前後がメダルラインになっている。

19年10月の北九州カーニバルで自身の日本記録を66m00に塗り替えた(写真/太田裕史)
19年10月の北九州カーニバルで自身の日本記録を66m00に塗り替えた(写真/太田裕史)

 だが、これは、北口が今やろうとしている技術がうまくまとまれば、という条件が付く。

 北口は昨年(20年)、東京五輪の1年延期を受けて保持走とクロス走の歩数を変更した。トータル16歩は変わらないが、保持走を8歩から10歩に増やし、クロスを8歩から6歩に減らした。助走全体のスピードを上げることが目的で、全日本実業団で63m45を投げたときはそれがうまく進んでいると感じられた。

 だが、前述のように試合数が少なく、試して修正する作業ができなかった。北口は練習で投げられる距離が、試合と大きく異なる。試合で検証するのが最善のやり方なのだ。

 記録の安定性は欠いたが、助走歩数の変更が世界に近づくためには避けて通れない改善点だと判断して変更した歩数をやり続けた。

 そして今季は、さらに助走歩数を変化させた。保持走は10歩で変わらないが、クロスを8歩に増やしたのだ。「構える時間を増やすこと」が目的だった。保持走の歩数は前年と変わらないが、「冬期トレーニングで走る練習をたくさんして、走る力が確実に上がっています」と、助走スピードもさらに向上している。

 しかし、その助走では、前述のように54~57m台の試合が続いた。

「コーチに求められていることが日本でできないので、帰国したときはこのまま速く走る助走を続けていいのか悩みましたが、もっと遠くに投げるためには必要なことです。ただ、速く走ろうとすると、得意としてきた“ひねって投げる”投げ方に影響が出ます。せっかく速く走っているのに、投げの局面で生かせていないんです。もう少し模索して改善しないといけません」

 記録のアベレージは昨年よりも低くなっているが、6月の日本選手権では後半3投がすべて61m台だった。日本選手権の次が東京五輪本番。もう少し試合を重ねたかったが、新しい助走を自分のものにできれば一気に記録を伸ばす可能性がある。その手応えは日本選手権で感じられた。

 北口のメンタルも、取材をしていて前向きになっていると感じられた。渡欧中のツイッターも弱気というより、現状を認めた上でしっかりと前を見ての発言と見ることができる。ダヴィッド・セケラック・コーチも日本選手団コーチとして、北口をサポートする。

 メダルも視野に入れている北口ではあるが、本当にやろうとしていることは世界トップレベルに仲間入りすること。そのためには目先の結果よりも、将来のために技術変更に取り組むことを優先させている。

「競技人生を長く続けることが私の大きな目標なんです。その過程で自国開催のオリンピックを経験できることはすごく運がいい。通過点ですが特別な舞台です」

 70m以上など、将来とてつもない記録を投げる可能性を秘めた選手が、地元開催のオリンピックをどう活用するか。結果よりも北口の成長していく姿を、東京五輪で感じ取りたい。

文/寺田辰朗

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