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2021-09-10

【連載 名力士ライバル列伝】旭富士 小錦 霧島の言葉「心を燃やした好敵手たち」・大関霧島前編

幕下時代からたゆまぬ努力で筋骨隆々の体を作り上げ、“角界のヘラクレス”の異名を取った霧島

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昭和から平成へ、時代のターニングポイントにおいて、
土俵を沸かせた名力士たち。
元旭富士の伊勢ケ濱親方、小錦八十吉氏、
元霧島の陸奥親方の言葉の言葉とともに、
それぞれの名勝負、生き様を回顧したい。
※平成28~30年発行『名力士風雲録』連載「ライバル列伝」を一部編集。毎週金曜日に公開します。

悔しさをバネに完成させた、豪快無比の必殺技

体重210キロの“規格外の怪物”に挑む、117キロのソップ型。逃げずに正面からくる大きい相手のほうが取りやすいとはいえ、さすがに倍近い相手では恐怖心のほうが先に立つ。事実、十両で一度戦ったときには、あの強烈な突き押しに、まったく歯が立たなかったのだ。

昭和59(1984)年名古屋場所9日目、のちに大関として並び立つ小錦との、新入幕同士の初顔合わせ。それでも気力を奮い立たせた霧島は、立ち合い、相手の強烈な突き押しをしのぐと、右下手から廻しを引き、最後は大きく弧を描く下手投げでねじ伏せた。

「自分の相撲は廻しを取らないと話にならない。だからこの一番も右下手を取れたのが勝因です。とはいえ本来はこのまま前にもっていくのが理想。私にもまだ、それだけの力がありませんでしたね」

当時はライバルという意識はなかった。他の力士に対してもそうだ。昭和50年春場所で初土俵を踏んだ、同郷同期で3学年上の若嶋津は、すでに大関と遠い存在。同じく同期で親友の太寿山も三役を経験している。小錦もまた、翌場所の“大旋風”で一気に番付を上げていったが、後から入った力士に追い抜かれる悔しさを、関取定着に丸9年かかる間にもイヤというほど味わってきた。だが、この悔しさこそ、「角界のヘラクレス」として活躍する原動力となったのも、また確かだった。

霧島を象徴する筋骨隆々の体は、この長く厳しい下積み時代から着々と磨いてきたものだ。もともと小食で太らない体質。体重増とケガをしない体づくりのために、早くから筋力トレーニングを取り入れた。

「師匠(井筒親方、元関脇鶴ケ嶺)には『そんな時間があるなら四股を踏め』と言われるので、隠れてやっていましたね。場所中も、負けたりすると悔しくて、錦糸町にあるジムまで走っていってましたよ」

代名詞の「吊り」「出し投げ」もまた、軽量のハンディを補うことが原点だ。

「相撲経験のない自分が、勝てる形を探していった結果が、廻しを取って頭を付ける四つ相撲。でも、普通に寄っていっては軽いので打っ棄られてしまう。そこで、より安全に、確実に勝てる吊りを覚えていったんです。出し投げも、大きい相手が多いので、横から崩さなければ勝てないから。師匠に教わりながら、時間をかけ、稽古の中で自分自身で作り上げていきました」

これらの必殺技を生かすには、まず何より先に相手の廻し、特に右を取ることが生命線だった。そこで、あることに気が付く。昭和63年夏場所の水戸泉との“打っ棄り4連戦”でも顕著だが、時折、白線よりかなり前で仕切っているのだ。

「自分でも、後から映像を見て分かったんです。要は、早く廻しを取りたい意識から、ああなっている。今なら間違いなく審判に止められてますよね(笑)」

器用な力士ではないといいながら、巨漢・大乃国の出足を止めるために蹴手繰りを2度決め、のちに貴花田には名人芸のような内掛けも見せている。それらは、悔しさを多く味わってきた男だからこその、勝利への執念の表れだったのかもしれない。(続く)

『名力士風雲録』第19号旭富士 小錦 霧島掲載

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