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2021-11-10

藤波辰爾が語る“かませ犬事件”当日の長州力の胸の内「僕に対して持ってたイライラ感をすべてぶつけたかった」【週刊プロレス】

1983年10月8日、後楽園ホールで長州力がマイクで自己主張

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 のちに“名勝負数え唄”を繰り広げた藤波辰爾と長州力。その発端となったのが、長州がメキシコから凱旋しての第1戦、あの“かませ犬発言”が飛び出した1982年10月8日、後楽園ホール。ところで、試合前の控室の雰囲気はどのようなものだったのだろうか?

「リング上の大騒ぎはこれまで話したことあったけど、試合前の控室のこと訊かれたのは初めてだね。僕は長州に対しては鳴り物入りで入ってきたこともあって、それまでから新日本プロレスで存在感を持ってる選手だって感じてたんだけど、彼の方はちょっと違うんですね。

 彼はメキシコから帰ってきた直後で。僕は特に意識してなくて、いつも通り淡々と試合の準備をしてたんですけど、彼の雰囲気がいつもとちょっと違うんですよね。でも、そんなに気にしてなかった」

 あれから時間がたったが、当時の長州の胸の内をこう語った。

「彼の中には、それまでやってきたアマレスの世界で培ってきたものとプロレスの違いをどこかで感じてたようで。入門してきてから溜まってたイライラした気持ち、それを何とかしたいっていう気持ちがあって。

 プロレスラーだから支持されないといけない。支持してるファンからすれば、『なんでもっと上にいけないんだ?』って思うでしょうし、そういう声も聞いてたでしょう。

 でも、彼ひとりの力だけではどうにもできない。うまく表現できない。そんな中で目の前には猪木さんがいて、僕がいる。リング上でああいう形で出すしかなかったんでしょうね。

 だけど僕にとってはいい迷惑。猪木さんがいて、僕はジュニアの世界でやっていて、一番心地いい時代だったんですよ。そこに長州が割って入ってきて。彼の胸の内は、命懸け、これでダメだったら辞めてもいいっていう気持ちで(メキシコから)凱旋帰国したらしいですね。

 あの時、『かませ犬』って言ったかどうか彼も定かでないんだって。ただ、僕に対して持ってたイライラ感をすべてぶつけたかったって。試合では僕が無視される形で。僕も無視しようと思えば無視できた。

 無視してたら彼の気持ちも行き場がなくなっちゃって、そこで終わってたでしょうね。でも、ああいう形になって抗争が始まった。彼にとっては、そこが本当の意味でプロレスのスタートになった」

 そして2人の闘いは“名勝負数え唄”に昇華していった。見ている側からすればすごくわかりやすい対立図式だったからこそ、藤波vs長州に熱狂した。

「そこから何試合かして、彼もプロレスの本当の面白さを知ったっていうか、自分がやってきたことのがムダじゃなかったっていう、アマレスでやってきたこととプロレスでのいろんな表現がお客さんに受け入れられた。彼にとってはもう1回、プロレスのスタートの立った形。あれがなかったら、長州力はいなかっただろうね」

 周囲の盛り上がりをよそに、当時の2人は本当にギリギリのところでぶつかり合っていた。

「これは猪木さんの考えなんだけど、自分は何をするためにリングにいるのか、リングに何をしに上がるのか、お互いにそういうものを持ってるから、あれだけの闘いになったんだろうね。感

 情をぶつけ合って単に収拾つかないケンカになるんじゃなくて、プロレスという競技に収まったから、2人の闘いがあれだけ支持されたんだろうね。僕が引こうとしても長州がぶつかってくる。僕はジュニアからヘビー級に転向したわけだけど、あの長州との闘いがなかったら、今こうやって残ってるかどうか。

 いい迷惑だったと言ったけど、自分にとってもあれは必要な大きな出来事だったと思いますね」

 長州の反乱が発火点になったかどうかは別にして、その後、初代タイガーマスクや前田日明といった新日本プロレスの鍵を握る選手が相次いで離脱、新団体を旗揚げしていった。それだけにとどまらず新日本にかみついてきたりと、リング外でもなにかにつけターゲットにされていく。

「ファンの方も、新日本プロレスはリング上だけじゃなくて、いろんな選手が出ていく中でどうなるんだろうっていう思いがあっただろうね。タイガーマスクはあれだけ一世風靡したのに突然マスクを脱いで引退しちゃうし」

 藤波も新日本離脱がうわさされた。優柔不断と批判されたこともあったが、新日本プロレスから離れることはなかった。結果的に新日本を守る形となった。

(つづく)

橋爪哲也

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