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2021-11-12

【連載 名力士ライバル列伝】心を燃やした好敵手・名勝負―横綱大乃国後編

隆盛を誇った九重2横綱に孤軍奮闘したが、28歳の若さで土俵を去った

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大横綱千代の富士の胸を借り、そして挑戦し、強くなった男たち。
元横綱北勝海、現日本相撲協会理事長の八角親方と、
元横綱大乃国の芝田山親方の言葉から、
それぞれの名勝負や、横綱としての生き様を振り返っていこう。
※平成28~30年発行『名力士風雲録』連載「ライバル列伝」を一部編集。毎週金曜日に公開します。

負け越しという結果には何ら悔いなし

昭和63(1988)年九州場所千秋楽、千代の富士さんの連勝を53で止めた。

あの前の晩、師匠(元大関魁傑)に「今のお前じゃ、どうせ勝てないだろう」とボロクソ言われてね。師匠の言葉ですから、もうお返しする言葉もなかった。ならば、「勝ってみせよう」という気持ちから、当時の朝は1時間半早く起きて、勝負のカギを握る立ち合いの感覚を、何度も何度も見直したんです。それまでは「待ったをしちゃいけない」という考えから、どうしても相手に合わせる立ち合いになってしまっていた。写真を撮られるときに「目を閉じちゃいけない」と思いつつ、シャッターと同時に瞬きしてしまうようにね。

その“特訓”の成果もあって、この一番はまさしく、自分の立ち合いができて、「先に上手を取り、相手には取らせない」形ができた。あとは、引っ張り込まれようが、モロ差しになられようが、自分からグイグイ前に出て、流れをつくることができました。まあでも、連勝を止めたどうこうより、改めて思うのは、相手に合わせず、自分の立ち合いができていれば、53連勝も許してしまうほど負け続けることはなかった、ということですよ。同じ横綱としてね。

平成に入ってからは、4場所連続全休もあり、皆勤負け越しもあった。相撲界で神様といわれる地位であっても、生身の人間である限り、神や仏のようにはいかないということですよ。現役時代に「休場は試合放棄と同じだ」という名言を残した師匠の教えとともに、この相撲界で自分がどれだけの力を出せるのかを目標にやってきた。だから、途中で休むという考えもなかったし、負け越しという結果には何ら悔いはありません。「横綱とはこうだ」という批評・批判は第三者がすること。私にとっては、精一杯、自分に正直に戦った結果が7勝8敗だった、というだけですから。

まあ、現役をやめて30年近く過ぎてみれば、あんな大変な時期もあったなあと。とにかく横綱として、土俵上で負け越したという生き証人は、大乃国と3代若乃花だけ。その話を聞けるのは、皆さん、貴重ですよ。アスリートの中には、素晴らしい成績を残し続けて、名声をほしいままにする人もいますけど、それはあくまで一握り。壁に当たってばかり、苦労をしてばかりというのが大半なんですから。それは一般社会でもそうでしょう。そうした方々に対して、自分が壁に当たったときに、どのように行動してきたのか、どのように心を切り替えてきたのかは、これからもお伝えできるんじゃないかなと。

まあ、苦しい思いもしたけれど、自分の生きてきた道は決して悪いものではなかったですよ。だって、1場所3金星取りました、3横綱3大関倒しました、全勝優勝も逆転優勝もしました、横綱にもなりました。なかなかの相撲取りでしょう? かといって私は“オタク的”にグーッと相撲に入り込むような人間でもなかった。北海道から上京して、もまれているうちに、いつの間にか横綱になっていた、という感覚なんですよね。そんな私が、なぜ綱を締めることができたのか、それは今後、皆さんで分析してもらえればと思いますね(笑)。

『名力士風雲録』第20号北勝海 大乃国 双羽黒掲載

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