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2022-02-26

本格的な闘魂三銃士時代幕開けを告げた後楽園ホール7連戦! 新日本プロレス歴史街道50年(18)【週刊プロレス】

武藤敬司、蝶野正洋、橋本真也

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 50年に及ぶ新日本プロレスで大きな転機となったのが平成に突入して2年目の1990年。前年に東京ドームに初進出、旗揚げ翌年からアントニオ猪木を支えてきた坂口征二が社長に就任して現役を引退。また、地方巡業でも大会場を主体に集中してサーキットする営業戦略を打ち出していった。

 そしてSWS(メガネスーパー・ワールド・スポーツ)旗揚げで日本マット界が揺れ動く中で企画されたのが、前代未聞の後楽園ホール7連戦。資金が豊富な新興団体に対する意地とともに、闘魂三銃士が海外武者修行から凱旋して揃い踏みした背景がそこにはあった。

 それまで後楽園ホールでは2連戦や3連戦、団体が入れ替わって1週間プロレス興行が続くことはあったものの、同一団体が7連戦を開催するのは初。しかもその主役に抜擢されたのが、新日本プロレス次代のエース候補だった武藤敬司、蝶野正洋、橋本真也の闘魂三銃士だった。

 本来、武藤は2度目の進出である2・10東京ドームに凱旋し、リック・フレアーの持つNWA世界ヘビー級王座に挑戦が予定されていた。ビッグマッチにふさわしくWCWマットのドル箱カードを新日本マットに輸入しようとしたわけだが、年末の大会で武藤が負傷、欠場を余儀なくされ、帰国は4月にずれ込んだ。だが、その裏ではSWSから誘われており、坂口新社長の説得もあって残留。これを機に新日本は三銃士を一気に売り出していった。その過程は以下の通り。

 4月27日、東京ベイNKホール、武藤が凱旋マッチで蝶野と組み、いきなりIWGPタッグ王座を奪取。

 5月、「クラッシュ・ザ・スーパーヘビー」で長州力が三銃士それぞれとシングル三番勝負を敢行。実力査定マッチ的な色合いの中で唯一、橋本が長州にフォール勝ちした(5月28日、大阪府立体育会館)。

 6月、福岡国際センター、三銃士に佐々木健介を加えた4選手で『バトルライン九州杯争奪トーナメント』が開催され、橋本が優勝。

 7月にはロード・ウォリアーズが新日本マット初参戦、武藤&蝶野が辛くもIWGPタッグ王座を防衛。

 そして8月、ゴールデンウイークの後楽園3連戦に続いて、『バトル・ホール・ア・ウイーク』と銘打ち七連戦(8月1日~7日)を敢行。その主役に起用されたのが三銃士だった。

 水曜から開幕した連戦。『闘魂三銃士・突撃7連発』とタイトルがつけられ、連日メインとセミを入れ替えながら、武藤は蝶野と組んでのタッグマッチ、橋本はシングルマッチで6連戦をおこない、最終日は三銃士の6人タッグが組まれた。

 武藤&蝶野は、木村健吾(当時)&木戸修、長州&越中詩郎、マサ・サイトー&小林邦昭、飯塚孝之(当時)&松田納(のちのエル・サムライ)、スーパー・ストロング・マシン&ヒロ斉藤、剛竜馬&高杉正彦相手に6連勝。IWGPタッグ王者チームの実力を存分に見せつけた。

 一方の橋本は、健介、馳浩を相手に2連勝でスタート。しかし、3日目の栗栖正伸戦は橋本の勝利に終わったが、試合後に「栗栖」コールが沸き起こったほどの大激闘に。しかし、その代償は大きく、橋本はヒザを負傷。それは古傷となって残り、のちのちまで苦しめられることになる。

 欠場してもおかしくないほどの重傷だったが、橋本は責任感からその後も強行出場を続けた。しかし満足に動けず、4日目のS・S・マシンにはリングアウト負けを喫した。続く健吾相手には勝利したものの、6日目は越中に丸め込まれて4勝2敗で6連戦を終了。

 三銃士がトリオを組んだ最終戦の相手は長州&サイトー&健吾組。百戦錬磨のベテラン勢に橋本が狙い撃ちにされ、最後は健吾の稲妻レッグラリアットに沈んでしまった。

 とはいうものの連日超満員で、三銃士が新日本の看板であることを証明。主役の重責を十分すぎるほど果たし、同時に本格的な闘魂三銃士時代が幕を開けた。そしてそれは『G1クライマックス』、さらには両国国技館7連戦へとつながっていった。
(この項おわり)

橋爪哲也

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