昨日4月30日夕刻。流れてきた1通のプレスリリースは、ファンや関係者に少なからず衝撃を与えた。それは、勅使河原弘晶(てしがわら・ひろあき、31歳=三迫)の引退報告だった──。元WBOアジアパシフィック・バンタム級&OPBF東洋太平洋スーパーバンタム級チャンピオン。彼に触れた者はもちろんのこと、誰からもこよなく愛された男。『ボクシング・マガジン3月号』の特集「不屈 再び立ち上がった男たち」では、進退を明言していない彼を特別に含めた。すでに“人として”しかと立ち上がり、前を向いていたのだから。長年、彼を追い続けているライターの加茂佳子さんが、今年2月にインタビューし著した記事を、一部修正し、ここに掲載する。LAST BOUT2021年12月11日 ディグニティヘルス・スポーツパーク(アメリカ・カーソン)★IBF世界スーパーバンタム級挑戦者決定戦12回戦○マーロン・タパレス(フィリピン)【KO2R6秒】●勅使河原弘晶(三迫)文&写真_加茂佳子
Text&Photo by Yoshiko Kamo
終わっちゃった…… アメリカでの試合のことは、開始1分を過ぎたあたりから記憶がない。ゴングが鳴り、距離が遠いな、と思ったこと、(マーロン)タパレスの逆ワンツーを貰って場内がどよめき、(全然効いてねぇよ)と心の中で舌打ちしたこと、逆にワンツーを打ち返したこと。覚えているのはそのあたりまでだ。気がつくと会見場にいた。まるで敗者のような発言をしている自分に、(なんで俺、負けたみたいな話をしているんだろう)と、ぼーっとした頭で訝しがる自分がいた。
会見が終わり、まさか僕は負けたんですかと加藤健太トレーナーに聞くと、さっきも聞きましたよ……、と案ずるような顔で、苦しげに答えた。
「倒されて、負けました」
信じられなかった。
試合の夜は眠れない。だがその日は猛烈な睡魔と怠(だる)さで泥のように眠った。目が覚めたとき、不意に、俺は負けたんだと理解した。「俺のボクシング、終わっちゃった。そう思いました」
元WBO世界王者の右フックに崩れ落ちた映像は、帰国後、隔離中に観た。
恐ろしい負けだ、と思った。
「苦しい局面での気持ちの勝負では、絶対に自分が上回る自信があったんです。でもそういう局面にすらならず、何もできないまま終わってしまった」
2回6秒負け。そうか、これを、僕を応援してくれる人たちが観たんだ……。その事実に激しく打ちのめされた。
「みんなどんな気持ちだったかと考えたら悲しくて辛くて。僕のために尽力して下さった三迫(貴志)会長、加藤さん、堀川(謙一)さんは2週間隔離までされて。勝っていたら少しは自分を慰められたかもしれないけど、それもできない」
19歳で世界王者になると決めて、12年間そのためだけに生きてきた。
「正直、毎日毎日えげつない疲労を溜めこんでいました」
過労が過ぎて自宅で痙攣を起こして気を失い、倒れた拍子に口を切って血だらけで意識を取り戻したこともある。それほど追い込まなければ強くなれないと信じていたし、負けることへの恐怖に打ち勝てなかった。だから1度も手を抜けなかった。すべては世界王者になるために。だが、その一歩手前で負けてしまった。
「不甲斐なさに、自分に失望もしました。でも、加藤さんと積んできた練習はベストなものだった。こうしておけばよかったという後悔は一切ない。僕は1日も妥協しなかった。それが今、自分の救いになっています」
死ぬまで挑戦し続ける 試合のひと月後、勅使河原は久里浜少年院の成人式の壇上に、講演者として立った。
「どんな境遇にいても、人は意志と努力で必ず人生を変えられます。だから希望を持ってください」
虐待、2度の少年院を経て東洋太平洋王者になった〝少年院の先輩〟の実体験と生きた言葉は、少年たちに届いた。後日、送られてきた約50人分の感想文には──僕もこれ以上、虐待した親に自分の人生を支配されたくない。何かに挑戦する人生を送りたいです。僕も勅使河原さんのように堂々と人前に立てる人間になりたい──。生身の声が綴られていた。
泣けてきた。
「少年たちに言葉が届いたとしたら、それは僕が12年間、1日も妥協せず挑戦し続けたからだ、と思えました。誇りを持っていいのだと、やってきたことの答えを貰えた気がします」
この先ボクサーとして再び走り出すのか新たな道を生きるのか、結論はまだ出していない。ただ、昨日よりも輝いている今日の自分でいる。死ぬまで挑戦し続ける。それだけは決めている。