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2022-05-07

武藤敬司の驀進宣言の裏でうごめいていたインディー潰し…新日本プロレス歴史街道50年(42)【週刊プロレス】

IWGPヘビーのベルトにキスをする武藤敬司

 3年連続3度目の進出となった1995年の福岡ドームは、北朝鮮・平壌で開催された「平和の祭典」の直後に開催された。国内とは異なる環境とはいえ、中3日でのスーパーイベント連続開催は新日本プロレス史上初。3大会で計43万人集めたのは大記録を残し、武藤敬司が「新日本プロレスは驀進します」の言葉で締めくくった3度目の福岡ドーム大会だが、振り返ればこの大会で生じたひずみが2000年代の暗黒時代へ向けた“予震”だった。

 1995年のゴールデンウイークにはアントニオ猪木が主導して、1990年のイラクに続いて平和の祭典が北朝鮮・平壌で開催された。政治的な側面は別にして2日間で38万人を集め、猪木は2日目(4月29日)にリック・フレアーを相手にプロレスの教科書的な試合を披露して話題的には大成功を収めた。その余韻冷めやらぬうちに開催されたのが、3度目の福岡ドーム大会だった。

 メインでは武藤敬司が、9度連続防衛と当時の記録だった橋本真也を破って、素顔ではIWGPヘビー級王座を初戴冠。試合後には「武藤敬司は、新日本プロレスは驀進します!」と発言。武藤の“驀進宣言”は同年夏、史上初、IWGPヘビー級王者として「G1クライマックス」を制覇した際に発言したものが印象に強いが、初めて口にしたのは、グレート・ムタとして新日本の至宝を手にしたのと同じ地、福岡だった。

 東京と福岡、年2回のドーム大会が恒例となりつつあった一方で、1995年の福岡ドームは問題も内包していた。過去2度と同様に“お祭りムード”に包まれた「レスリングどんたく」だが、この年は他団体、それもインディーからの参戦が目立った。

 象徴的だったのがIWGPジュニアヘビー級王座に挑戦したサブゥ。当時のサブゥは、大仁田厚率いるFMWを代表する外国人選手。同団体の通常の代名詞的な試合ともいうべきデスマッチでは、臆せず突っ込んで首を有刺鉄線に挟まれたり、自爆ムーブでテーブルをクラッシュするなど、新日本が掲げるストロングスタイルとは対極的な試合スタイルで、相容れないものと思われた。それがジュニアヘビー級とはいえ、初挑戦でIWGPを関する王座を奪取。それも相手が“ケンカ番長”といわれた金本浩二だったから衝撃は大きかった。

 また、のちにFMWでエンターテインメント路線を打ち出す冬木弘道が蝶野正洋と合体。もともと冬木は国際、全日本出身とあってインディーとはいえないが、この当時はWARに所属しながら積極的にインディーテイストを取り入れていた時期だった。

 対戦相手は越中詩郎&テリー・ファンク組。ともに全日本カラーが強い2人だが、このころのテリーはFMWで大仁田厚と時限爆弾デスマッチで対決。さらにFMWのデスマッチ路線を米マットに持ち込んで、フィラデルフィアを活動拠点に東部のインディーでしかなかったでしかなかったECWを、WWF(当時)、WCWに継ぐ第3団体にのし上げている。

 1995年のゴールデンウイークといえば、大仁田が2度目の引退をした時期。ハヤブサを中心とした新生FMWに生まれ変わるのを機に、サブゥなどは契約を更新されなかった。そこで新日本がオファーしたわけだが、邪道テイストを採り入れるというよりは、主要レスラーを取り込んでトップクラスの“インディー潰し”に打って出たとの印象。

 長州力がインディー批判して大日本プロレスが新日本マットに乗り込んできたのは、そこから1年後になる。
(つづく)

橋爪哲也

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