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2022-06-24

【連載 名力士ライバル列伝】ヨーロッパからの「挑戦者たち」――把瑠都前編

豪快なパワー相撲で鳴らし、“エストニアの怪人”と言われた把瑠都

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四股名にズバリ「欧州(欧洲)」と名乗り、
大関へ駆け上がったブルガリア出身の琴欧洲(現鳴戸親方)。
その“先駆者”を目標にして上を目指し、栄位にたどり着いた
エストニア出身の把瑠都。
ヨーロッパから極東の国へ、
新風を吹かせた「挑戦者」二人の言葉を送る。

十両Vが「本当のスタート」

“どうだ、見たか”と言わんばかりに、自信に満ち溢れた表情だ。平成18(2006)年春場所千秋楽、三役経験者の隆乃若を、豪快な右上手投げで土俵中央に転がした把瑠都。昭和38(1963)年九州場所の北の冨士(のち北の富士)以来、十両全勝優勝を成し遂げた瞬間である。

「2場所前に盲腸をやって、この場所も完全な状態ではなかったんです。でも初日から一番、一番と結果を残していって、幕内を経験している兄弟子たちにも勝つことができた。それが自信になったんですよね。でもまさか、全勝というのは考えていませんでした」
 
40年超のブランクがあったとはいえ、それ以前の十両全勝力士は、栃光、豊山、北の冨士と、その後いずれも大関以上に昇進している。当然、そのことも知らされたが、「満足感は一切、なかったです」と把瑠都。

「まだまだ、基本的なことが足りていなかったし、まだまだ、稽古しなくちゃいけないなって。これが私の、本当のスタートだと思いました」
 
エストニアでは柔道と相撲に親しんでいたが、最終的に選んだのは相撲のほうだ。裸一貫、力で勝負。そういうシンプルな魅力に引かれたからだ。冬はマイナス20~30度にもなる、8000キロ離れた北の国からやって来たのは、平成16年2月、19歳のとき。日大相撲部で2カ月ほど相撲の手ほどきを受けたあと、三保ケ関部屋へ入門する(のち尾上部屋に移籍)。

「最初、『日本に行って、ちょっと練習して、たくさん食べて、寝たら、それで強くなるよ』って誘われたんですよ。でも、来てみたら、全然違うじゃんって(笑)。たくさん稽古をするし、ビックリしました」

まさに、豪快無比。すでに197センチ、141キロあった把瑠都の取り口は、入門時から破格だった。「柔道をやっていた延長」の感覚で、大きな体と懐の深さを生かし、ガバッと肩越しに廻しをわしづかみにし、振り回す。日本人には到底、マネのできない相撲ぶりに、ついた愛称は“エストニアの怪人”。

「『そういう取り方ではケガをするよ』とは、稽古場ではよく師匠(元大関増位山太志郎)に言われていたし、ワキを開けないようにと意識はしていました。でも、本場所に入れば勝ちたい一心じゃないですか。どうしても、上から廻しを取るという相撲になってしまいましたよね」
 
十両全勝優勝を経て、新入幕の平成18年夏場所では、いきなり優勝争いに絡む11勝。千秋楽には敗れたものの、大関白鵬戦が組まれて「是より三役」に登場している。翌、名古屋場所9日目には、ヨーロッパ出身の先輩として目標としていた大関琴欧洲(当時琴欧州)との初顔合わせで白星。

「私は向かっていくだけだったから、気持ち的に優位だったと思う。前に出てくるタイミングで投げを打ったんですが、まさか、そこからさらに投げられるとは思わなかった(笑)」

粗削りで、底知れぬパワー。「夜も個人的に、稽古場に降りて四股、てっぽう、すり足をたくさんやっていた」というだけ土台は足りていなかったが、逆に言えば、それが身に付けばどれほど強くなるのか、末恐ろしさに身を震わせた者も多かっただろう。
 
だが、次の平成18年秋場所、懸念されていた事態が把瑠都を襲う。左ヒザ靭帯損傷。肩越しに上手を取る取り口が、ヒザに大きな負担をかけていたのだ。それから1年ほどは、故障と復帰を繰り返す、つらく、険しい日々。その間、ヒザ周りの細かい筋肉を地道に鍛え、また、稽古場ではサンドバックに向かって、ひたすらぶつかり、当たりを強くする稽古に励んだ。上からではなく、下から、前ミツから、廻しを狙いにいく意識を植え付けるためだ。異国の地での、出口が見えそうで、見えないトンネル。その間の心の支えとなったのは、のちに結婚する妻・エレナさんの存在だった。

「まだ私も若かったし、一人だったら乗り越えられなかったかも分からないですね」

と把瑠都は言う。(続く)

対戦成績=把瑠都3勝―25勝白鵬、把瑠都12勝―18勝日馬富士、把瑠都21勝―6勝稀勢の里

『名力士風雲録』第28号 琴欧洲 琴光喜 把瑠都掲載

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