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2020-08-30

【ボクシング】コンビ復活! 信じるトレーナーと翔ける。 比嘉大吾の新たなる旅路

新型コロナウイルスによる長期自粛期間を経て、7月から活動再開を果たした日本プロボクシング界。ふたたび起ち上がる、カムバック──。『ボクシング・マガジン8月号』(7月15日発売号)ではこれをテーマにし、世界チャンピオンを中心とした総勢18人の選手をインタビュー。中でも反響の大きかった元WBC世界フライ級チャンピオン(現・同バンタム級7位)比嘉大吾(25歳=Ambition)の記事を加筆・再編集し、ここに掲載する。

上写真=生気みなぎる表情と目力が戻ってきた!

文_加茂佳子
Text by Yoshiko Kamo
写真_本間 暁
Photos by Akira Homma

歓迎ムードと対極の孤独

 今、比嘉大吾を書くのに、いつの時からどう話を始めたらいいのか、ずっと考えている。
2月13日。1年10ヵ月ぶりのリングに立つ姿を見た。超満員の後楽園ホール。比嘉大吾がどれほどファンに待たれ、喜びを持って迎えられたかは彼が花道に姿を現したときの爆音のような歓声が物語っていた。沖縄からは250人が駆けつけていた。  
 6回。右ボディアッパーでフィリピンボクサー、ジェイソン・ブエナオブラからダウンを奪い、やはりボディでレフェリーストップを呼び込んだ。比嘉復活の興奮に沸く会場の空気が不穏なものに変わったのは、主役がマイクを向けられたときだ。
「……今後モチベーションが上がらなければ辞めることも考えています」
 

スーパーバンタム級8回戦でリング復帰。6回TKO勝利したものの、669日ぶりのパフォーマンスは、全盛時には程遠い出来だった 写真_小河原友信

 控え室へ引き上げ報道陣に囲まれた比嘉は、やはり鬱々とした表情のまま言葉をつないだ。
 やる理由がわからないまま練習をしていた。以前の闘争心が、ない……。
 人一倍、場の空気を読み、気を遣う人だという印象がある。公開練習や記者会見。無邪気を振る舞いながら、周囲に目配りしていてタイミング良く冗談を飛ばしたりネタを提供したりするのが常だった。だから自分の発言が波紋を呼ぶことも記者たちの戸惑いも感じていたはずだった。それでも彼は言葉を止めなかった。戦意と情熱が削られた原因については言葉を濁しながら心情を吐露し続けた。伝わってくるのは、孤独、だった。悲鳴にも聞こえた。痛々しかった。
 ひと月後、比嘉大吾、白井・具志堅ジムとの契約更新せず、の報が流れた。

戻ってきた笑顔

 6月末、比嘉に会った。取材日前夜、明日は天気がよさそうなので予定通り公園で練習します、と野木丈司トレーナーから案内があった。2018年4月、計量失格の責任を取りジムを辞した野木トレーナーとは、一時離別せざるを得なかった。晴れてフリーとなった比嘉は恩師の元へ戻っていた。
 指定されたのは横浜市内の、広大な丘陵のある公園。野木トレーナーの自宅、4月に東京を引き払った比嘉の新しい住まいからも近いという。そもそも野木氏が居をこのあたりに定めたのは、「階段トレーニング」含め選手のトレーニングに適した自然の練習場がそこかしこにあるからだった。
 比嘉は同じ沖縄出身の大湾硫斗と連れだってやってきて、こちらの姿を認めると「今日はよろしくお願いします!」と腰を90度に曲げた。
「4ページですか? 色つきですか? 2年間影に潜んでた俺がいいんですか」
 腰の低い元世界王者はリュックをごそごそすると、お一つどうぞ、とハイチュウを勧めてくれた。
「取材の方たちに大吾は気配りを見せた。こんな書き出しはどうですか」
 ケラケラと笑う。走り込んでいる証の日焼けあと。引き締まった足首。滑らかな筋肉が腕に足に背中に盛り上がり、戦うための肉体が着々と作られているのが見て取れる。何より目の輝きが違う。「あーまた練習かー」とこぼすその声に張りがある。
「よーし、走ってこい」
 ストップウォッチを手にしたトレーナーがお尻を叩くと2人は駆けだした。

元はゴルフ場だったという、自然豊かで勾配の多い公園を、ひたむきに走る

「かなりきついと思います。1週間、10日の合宿でこなすハードな内容を1日2回。もう2ヵ月になります」
 主戦場はバンタム級になる。野木トレーナーは比嘉のフライ級時代から先を見据え、転級対策を講じてきていた。リスク、階級の壁。修正と強化すべき点。階級を上げたボクサーたちの実例、特にローマン・ゴンサレス(ニカラグア/世界4階級制覇王者、現WBA世界スーパーフライ級チャンピオン)がスーパーフライ級に転級した際ぶちあたった壁を参考に、スタイルチェンジ、肉体改造のメニューを組み立てている。
「スタミナ、パンチ力、様々なボクシングの感覚。ほぼ戻ってきています。次の試合は比嘉大吾らしいパフォーマンスをお見せできると思います」

10ラウンドマスは、ときに傾斜も利用するなどバラエティに富む。野生児復活には最適の場所だ

煌めく未来が待っているはずだった

 18歳で上京し21歳、全勝全KO無敗のまま世界王者になった。2度目の防衛戦。元2階級制覇王者モイセス・フエンテス(メキシコ)の腹に右ストレートを突き刺し、日本の連続KOタイ記録、15をマークした。152秒の戦慄のKO劇。地元沖縄、凱旋試合という最高の舞台でだった。
 以前より減量苦という危うさが背中合わせにあった。それでもあの時、この“KOキング”の破竹の勢いは止まらぬように思えた。米国進出、ビッグマッチ。煌めく未来だけが待っていると思えた。
 だが限界は着々と忍び寄ってきていた。その次戦、3度目の防衛戦で、絶頂にいた世界王者はあらゆるものを失った。計量失格。王座剥奪。9回、棄権。身体を支えられリングを降りた比嘉は病院に運ばれ、そのまま表舞台から姿を消した。
 後日ライセンスの無期限停止処分が下された。22歳の、春だった。

初めて死を意識した

 規定体重を作ることはボクサーの義務であり、減量苦を擁護するものではない。ただ、比嘉がどういう状態にあったかを記しておきたい。
 世界挑戦の時から減量中、危機に見舞われない試合はなかった。10kg超の減量苦と重圧、心労による過呼吸、パニック障害の発作。
 沖縄での試合2日前、野木トレーナーは隣りの比嘉の部屋からのドスッ、ガンっという凄まじい音を聞いた。慌てて合鍵でドアを開けると教え子がうあああああうあああああ!!と叫びながら壁を殴っていた。
「半狂乱、という状態でした」
 その翌日、無事計量をパスし秤を降りた比嘉は、誰に言うともなく、もうフライは最後にしたい、と呟いた。限界、と聞こえた。
 3度目の防衛戦が決まったのはその翌日だ。フエンテスを倒し、安堵と解放感に浸っていた、その夜。
 70日後、フライ級で。
「……俺の苦しんだ姿を会長、見てたのにな、という思いはありました。でも、やると試合を受け入れたのは自分。気持ちも切り替えた。失格したのは100%、俺が悪い。俺の責任です」
 この防衛を果たしたら必ず階級を上げる。それが支えだった。連続KOの新記録も「はっきり狙っていた」。
 体重を増やしすぎないよう、野木夫人手作りの栄養価を計算されたお弁当で早くからウェイトコントロールも始めた。
 だが試合1週間前。それまでいくら苦しい時にも感じたことのない、ぞっとするような嫌な予感に襲われた。
 今回はヤバいかもしれない……。
「いつもの1週間前と残りの体重は変わらなかったんです。でも体が、今までの体じゃなくなっていた。汗を出したくても汗をかくような動きができない。もう、体のどこもかしこも力が入らない。いうことをきかなかったんですよ……」
 試合3日前、半身浴をするために起き上がろうとして目がくらんだ。足が痺れ、まともに立つことが、できない。
「その時に、もう無理だ、と」
 怖れていた予感が現実になろうとしていた。
「どうしよう、とか、もうそういうことも何も考えられなかったです。苦しさ以外、何も感じられなかった」
 その日ジムメイト・木村吉光の試合があった。野木トレーナーは自分が不在にする約3時間、比嘉を見守るよう後輩トレーナーに頼んだ。試合後急いで戻ると、落ちくぼんだ眼窩、うつろな目をして横たわる比嘉の隣で、後輩トレーナーは目を真っ赤にし、痛々しくて見ていられない、と嗚咽を漏らした。
 計量は失格した。
 具志堅用高会長は試合をやめてもいいと言い、体を案じる周囲からやめた方が、の声もあがった。リングに立つと決めたのは本人だ。
「みんなどうしてやめさせようとしてるの、と。王座も失ってファイトマネーまでなくなったら俺は何のためにやってきたのって。勝ちたい気持ちもありました」
 プランは二つ描いていた。どちらで行くか直前まで迷った事を覚えている。だが歩いた花道、試合も「あまり覚えていない」。
 記憶は、負けて控え室に戻る途中、過呼吸が起き、「あまりの苦しさに初めて死ぬかもと思った」あたりからだ。病院には父と野木トレーナーが付き添った。病院について安心したのか比嘉の容態が落ち着くと野木トレーナーは買い出しに出た。吉野家の牛丼。病室で3人、うまい、うまいなと食べた。計量失格後、比嘉には翌日の体重制限が設けられていた。点滴の分を考えると食べられる量はわずかだったから、その牛丼は何週間ぶりかに口にするまともな食事。大吾は父の分を少し横取りした。
「負けたショックは大きかったです。でももう今日から水も食べたいものも我慢しなくていい。人間らしい生活ができるんだと思ったら、その解放感でショックは薄れていった。そうボクシングへの気持ちは完全に切れました」

辛い記憶を手繰り寄せる。苦い思い出から決して逃げず、真摯に語った

ボクシングしかなかった

 退院後、半年間は、「ただ楽しいだけの休暇」を過ごした。銀行口座から百万円を下ろし、これがなくなったら働くと決めて財布に入れた。目標もやるべきこともない。好きな時間に起き、その時の気分で大阪に行き、沖縄に帰省し、フィリピンにも行った。
「友達や会いたい人に会って、飲んで食べて、やりたいことは全部やった感じ。ボクシングに戻る気はまったくなかったから、ほんとに心身ともに自由でいられたんですよ」
 百万はあっという間になくなった。もう少しだけ、と追加でおろすうち蓄えは激減していた。
「何か事業を始めるつもりだったんです。なのに気づいたらお金ない、やりたいこともわからない。でも稼がないといけない。俺が何で稼げるか。考えたとき、ボクシングしか俺にはなかった」
 ちょうどその頃だった。そろそろ体を動かさないか。頃合いを見計らっていた野木トレーナーから連絡が入った。
 再起するなら、やめる前より上にいかなければ意味がない。比嘉には野木トレーナーが必要だった。だがジムを離れた恩師と再出発するにはクリアしなければならない障壁がいくつもあった。必死に道を探ったが道は拓けない。
「俺は強くなるための環境が欲しかった。ただボクシングに集中したかったんですよ……」  

オーバーハンドクロス。シルエットを見ただけで“彼”とわかる。本当の再起への調整はすこぶる順調だ

 様々な人の思惑、「裏切り、大人の世界の汚さ」に直面した。そのたび心は痛み、荒んだ。募る苛立ち。情熱は削られ、戦う理由さえわからなくなった。
 あの頃の苛立ちは、哀しみとワンセットだったと、比嘉は言う。
 休日の日曜日、1人、冬の海に行った。鎌倉まで電車に揺られ、そこから江ノ島の海岸まで約7キロを歩く。見知らぬ町を散歩し、潮風に吹かれ、波の音を聞いている間だけ、胸で波打つ憤りや哀しみが少し和らぐ気がした。
 それでも闘志、は取り戻せないまま再起戦を戦った。計量失格後も支え続けてくれた個人スポンサーとファン、信頼する近しい人たちのためだけに戦ったと比嘉は言う。彼らの存在がなければあの場で引退宣言をしていたと思う、とも言った。

自分の思うように生きる
それが望み

「キツイ!」と叫びながらも、比嘉の表情からは喜びが溢れ出す

 幸せ、について話をした。世界王者時代の彼に同じ問いかけをしていたら、違った答えが返ってきただろうか。
「何が幸せなんだろう」
 わからない、それを探すのが人生なのかな、と比嘉は言い、
「でも幸せは半分ぐらいでいいかな」と続けた。
「幸せと苦難が5:5だったら、倍、幸せを感じられそうじゃないですか」
 取材者が、自分は苦難はいらないですと言うと、
「俺ももう、幸せだけがいいです」
と慌てて笑った。
「一生分の苦難、もうきたから。まだ甘いかな?」
 世界の頂点に立ち、そこからの景色を見た。痛い転落を経験し、自由を謳歌し、死を身近にも感じた。様々な人間を見た。この2年の出来事に人生観は変わった。
「人生って自分のものじゃないですか。自分の思うように生きたい。大事にしたい、今、そう、すごく強く思う」
 6月30日。井岡一翔も所属するAmbitionジムに野木トレーナー共々所属することが発表された。
「最高の状況になって、この先何のせいにもできない。野木さんが付いて、これで世界に返り咲けなかったら100%俺の責任」と比嘉は言う。
「本気になった比嘉大吾を世界王者に出来なかったら100%僕の責任です」と師が言う。胸の奥にはずっと、大吾に計量失格の不祥事を犯させてしまったとの自責の念がある。
「僕の年齢、負える責任を考えると、おそらく大吾は最後の教え子の一人になると思います。あいつにはこの先、悔いのないボクシング人生を歩ませたい。それが今後の僕の仕事だと思っています」
 比嘉がボクサーになると決めたとき、世界王者になりたい、ではなく、なる、と「なぜか決まっていることのように思えた」。今、あの時と同じ、なる、と信じられる自分がいる。勝ち続けていったら、幸せが何か、見えてくるのかもしれないですね、とも言った。
「次が本当の再起」 
 予定では10月。師も弟子も人生の大事なものを掴みにいく旅になる。

野木トレーナー、後輩の大湾と。午前に加えての午後練が終わり、充実感を漂わせる

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