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2022-09-19

【ボクシング】元東洋&日本フライ級チャンピオン矢尾板貞雄さんが死去

テクニシャンとして大いにならした

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 昭和30年代に大活躍し、日本ボクシング大ブームの一翼を担っていた元東洋&日本フライ級チャンピオン、矢尾板貞雄さんが今月13日に亡くなっていたことが19日、明らかになった。享年86。引退後は評論家、テレビ解説者、『ボクシング・マガジン』本誌で健筆を奮うなど、ボクシング界を多大な愛情で見守り続けていた。

写真_BBM

 1955年(昭和30年)9月にプロデビュー。1958年1月、28戦目で日本フライ級王者・岩本正治に挑み10回判定勝ちで王座獲得(2度防衛)。同年4月、東洋バンタム級王者レオ・エスピノサ(フィリピン)に挑み、12回判定負けを喫したものの、5ヵ月後に東洋フライ級王者レオ・スルエタ(フィリピン)を判定に下して奪取した(防衛1)。

名王者ペレスを、ノンタイトル戦ながら破る大金星を挙げた
名王者ペレスを、ノンタイトル戦ながら破る大金星を挙げた

 野口恭、三迫仁志、木村七郎、米倉健司、石橋広次との、人気、実力を兼ね備えた名選手同士の対戦もさることながら、一躍名を上げたのは当時の世界フライ級王者パスカル・ペレス(アルゼンチン)をノンタイトル10回戦で判定に下した試合(1959年1月)だろう。
 ペレスは1948年ロンドン五輪金メダリストで、今もなお、フライ級のオールタイム・ランキングに名を連ねる名チャンピオン。中南米を中心に、絶大な支持を得る選手で、現役時代を知らずとも、後に映像を見た世界のトップボクサーたちが「アイドル」として挙げることも多い。
 10ヵ月後の王座を賭けた再戦では、ダウンを奪ったものの13回KO負けを喫し、残念ながら世界チャンピオンとなることは叶わなったが、当時の日本ボクシング界の隆盛ぶりは現代では想像を遥かに超えるほど。「矢尾板の名を知らぬ者はいない」と言われるような、国民的ヒーローだった。

 その後も、エデル・ジョフレ(ブラジル)、ジョー・メデル(メキシコ)ら史上屈指の名選手とも対戦し、敗れはしたものの、フットワークを駆使した華麗なアウトボクシングを存分に発揮し、「ヤオイタ」の名を轟かせた。

 1962年(昭和37年)に引退。戦績は66戦53勝(7KO)11敗2分(※矢尾板さんご本人に伺ったところ、「それ以外にも数えきれないくらいエキシビションマッチをやった」とのこと)。
 その後はフジテレビ『ダイヤモンドグローブ』の解説者、サンケイスポーツ紙の評論家を長きにわたり務め、また『ボクシング・マガジン』本誌内「熱戦譜」で、毎月数試合をピックアップし、愛情溢れる叱咤激励をし続けた。この連載はオールドファン、若いファンを問わず、読者の心を鷲掴みにしており、矢尾板さんの連載復活を熱望する声は、コーナー休止以来、常にあった。

リングサイドの記者席には、常に矢尾板さんの姿があった(写真は2016年)
リングサイドの記者席には、常に矢尾板さんの姿があった(写真は2016年)

 読者だけではない。われわれ若輩記者もどれだけお世話になったことか。ただただ「ボクシングファン」というだけで、ボクシングのイロハすら分からない記者に、それこそイチから叩き込んでくれた。江戸っ子口調で、一聴するととても厳しく感じられるのだが、その裏にあったのはボクシングへの深い愛、そして「ボクシングを好きでいる記者」を大切にしようという熱意。それがひしひしと伝わってきたからこそ、分からないことがあれば矢尾板さんに訊く。そういう記者は、業界内に数多く存在したのだ。

『ボクシング・マガジン』本誌が7月発売の8月号で休刊となり、矢尾板さんにも大変申し訳なく思っていた。いつの日か復活、あるいは別の形で、矢尾板さんの解説を拝聴し、ファンの皆さんへふたたび届けようと考えていたところでの訃報。

 今夜は呑めない酒を呑んで献杯するとともに、故人の思い出に浸っている。そうしてこの原稿を書いていることを、どうかお許しいただきたい。

文_本間 暁

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