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2019-12-17

【柔道】日本柔道オリンピック金メダリスト列伝(第13回)園田勇

柔道が初めてオリンピックの正式競技となった1964年東京大会から2016年のリオ大会まで、“柔道王国”日本は史上最多のメダルを獲得してきた。そして、その長い歴史の中で燦然と輝くのは卓越した技量で他を圧倒し、表彰台の頂点を極めた金メダリストたちだ。ここでは、各階級のレジェンドからリオ大会の大野将平、ベイカー茉秋、田知本遥まで、『日本柔道オリンピック金メダリスト列伝』として1人ずつ紹介。今回は、1976年モントリオール大会80kg級・園田勇をクローズアップする(※文中敬称略)

※写真上=76年モントリオール五輪80kg級で金メダルを獲得した園田勇は当時29歳。“最後の花道”を最高の結果で飾った
写真/BBM

1976年モントリオール五輪80kg級
園田勇

◆若かりし頃の兄との激烈な稽古と、烈々たる“地方魂”が強さの源

 九州に生まれ、九州に育ち、九州で強くなり、オリンピックの金メダリストになったのが園田勇だ。兄の義男と共に69年のメキシコシティ世界選手権に出て兄弟優勝も成し遂げている。

 生まれは福岡県山門郡三橋町。以後、福岡電波高、福岡工業大、福岡県警察と、柔道人生は地元・福岡が拠点で、本人は「どこへ行っても、やる気さえあれば同じ。中央の選手には負けん」という九州人としてのプライドを持っていた。だから、五輪金メダル獲得の大元は、中央へ中央へとなびく風潮に対する反骨心だったといえる。

 実家は養豚業。100頭以上の豚の餌を毎日、デパートや食堂に集めに行った。リヤカーや自転車で運んだことで自然と腕力が強くなり、脚力や心臓も鍛えられた。兄が中学で柔道を始めたことで、野球から柔道に転向。「中学、高校と、兄とはお互いに『負けんぞ!』とケンカ腰で稽古した」。基礎体力に加えて、そのような猛稽古が、2人を後に世界チャンピオンになるような柔道家に押し上げたのだ。

 76年のモントリオール五輪では初戦から3回戦の林英哲(韓国=東洋大)戦まで余裕で勝ち進み、準決勝ではマレンケ(西ドイツ)に合わせ技で勝利。決勝では前年のウイーン世界選手権軽中量級2位のドボイニコフ(ソビエト)から大内刈りで「有効」、「効果」を奪って圧勝した。当時29歳。選抜体重別で4歳下の藤猪省三に勝っての五輪代表だったが、周囲からは世界選手権で3連覇している藤猪の方が、より金メダルに近いと思われていた。

 だが、園田には意地があった。72年のミュンヘン五輪は補欠。晩年に迎えた最初で最後のオリンピック代表だった。「絶対に勝ってみせる」。心の奥で自分に誓った。そして、常に燃えていた反骨心が彼を支えた。ドボイニコフ戦では、サンボの足取りタックルで左足を取りにくる相手を右半身でさばき、勝利を引き寄せた。得意技は右大外刈りだが、この頃は前技の内股も習得し、前後に技を掛けて相手を翻弄した。

 現役時代、園田は外国人選手に一度も負けたことがない。組むと同時に、相手がどのような柔道をするかどうかよりも、自分が先々に技を仕掛けて追い込んだからだ。そうした攻撃的柔道の元になったのは、若かりし頃の兄との激烈な稽古。そして、中央に行かなくても勝てるという烈々たる“地方魂”だった。

※写真上=76年モントリオール五輪80kg級決勝。園田勇はドボイニコフ(ソビエト)を積極的に攻撃し、大内刈りで「有効」と「効果」を奪って圧勝した
写真/BBM

Profile そのだ・いさむ 1946年11月4日生まれ、福岡県山門郡三橋町(現・柳川市)出身。福岡電波高-福岡工業大-福岡県警察。69年メキシコシティ世界選手権優勝、73年ローザンヌ世界選手権2位、76年モントリオール五輪優勝。

文◎木村秀和

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