【Vol.1はこちらから】田中希実。日本女子中距離界に衝撃を与え続けている小柄な女王。その専属コーチは実父・田中健智である。指導者としての実績もなかった男が、従来のシステムにとらわれず「世界に近づくためにはどうしたらいいか」を考え続けてきた。そんな父娘の共闘の記憶を、田中健智の著書『共闘』から抜粋しお届けする短期連載。
前回の『【連載】田中希実の父親が明かす“共闘”の真実 Vol.4 希実の誕生前後に経験した「妻との共闘」』を読む第5回目は、1999年、田中健智と妻・千洋の長女として希実がこの世に誕生後、幼少期の印象的なエピソードから。
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我が家の長女、希実が生まれたのは、1999年9月4日のことだった。名前の由来は読んで字のごとく、「自分が思い描いた希望を実らせてほしい」との願いだ。この世に生まれ出た限りは、自分の人生を実りあるものにしてほしい。そんな私たちの思いを込めた。
本人とは今もよく話しているのだが、人間にとって、振り返った時に「まんざらでもなかったな」と思える人生が幸せではないかと思うのだ。そう感じられるようなゴールに向かって日々を後悔なく歩んでいきたいし、彼女には名前に込めた思いのままの人生を叶えてほしいと願っている。
身長153センチと、日本人選手の中でも小柄な彼女だが、生まれた時から小さな子だった。ただ、何となくだが、他の子より立つのは早かったように記憶している。今のトレーニングに対する姿勢にも通じているのだろうか、幼い頃から自分で最初から最後までやり通さないと気が済まない性格だった。
彼女がパズルや積み木で遊んでいる時、人が良かれと思って手伝ってあげると、途端に機嫌が悪くなり、バラバラに崩してしまう。絵を描くにしても、納得のいくまでクレヨンを絶対に手放さない。こだわりが強く、頑固な性格なのが短所でもあり、長所でもある。こうと決めたらそれが実現するまで譲らない姿勢は、私たちがそう育てたわけではなく、本人が持って生まれたものなのだろう。
そんな彼女の性格を裏付けるエピソードは他にもある。次女の希空(のあ)が生まれる1年前の2004年から、私と妻は毎年夏場に、長野・岐阜にまたがる御嶽山を高地トレーニングのために訪れていた。2003年、希実はまだ4歳だったが、練習拠点がある標高1700メートル地点から、飛騨頂上の2800メートルまで、親の手を借りることなく、自分の脚で登り切ったのだ。
当時はまだ、御嶽山での高地トレーニングはメジャーではなく、初めて訪れた時には「こんなところを走っているのはあなたたちくらいだ」と驚かれたものだ。その上、大人に頼らず山頂まで登り切った希実は、地元では「珍しい子」として扱われていたのではないだろうか。
【田中希実の父親が明かす“共闘”の真実Vol.6に続く】
<田中健智・著『共闘 〜セオリーを覆す父と娘のコーチング論〜』第2章-父親として、コーチとして-より一部抜粋>
日本人選手の中でも小柄と言える田中希実。幼少期から周りと比べて小さかったが、頑固な性格だったと父・健智氏は振り返る(Photo:BBM)田中健智
たなか・かつとし●1970年11月19日、兵庫県生まれ。三木東高―川崎重工。現役時代は中・長距離選手として活躍し、96年限りで現役引退。2001年までトクセン工業で妻・千洋(97、03年北海道マラソン優勝)のコーチ兼練習パートナーを務めた後、ランニング関連会社に勤務しイベント運営やICチップを使った記録計測に携わり、その傍ら妻のコーチを継続、06年にATHTRACK株式会社の前身であるAthle-C(アスレック)を立ち上げ独立。陸上関連のイベントの企画・運営、ランニング教室などを行い、現在も「走る楽しさ」を伝えている。19年豊田自動織機TCのコーチ就任で長女・希実や、後藤夢の指導に当たる。希実は1000、1500、3000、5000mなど、数々の日本記録を持つ女子中距離界のエースに成長。21年東京五輪女子1500mで日本人初の決勝進出を果たし8位入賞を成し遂げている。23年4月よりプロ転向した希実[NewBalance]の専属コーチとして、世界選手権、ダイヤモンドリーグといった世界最高峰の舞台で活躍する娘を独自のコーチングで指導に当たっている。
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