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2019-01-22

就任1年目でリーグ2位。 広島、城福浩の「選手の導き方」

2012年、13年、15年にJリーグを制したものの、17年は低迷し、残留争いを余儀なくされたサンフレッチェ広島。しかし、翌18年に同クラブを率いることになった城福浩・監督がチームを蘇らせ、優勝争いを演じるまで引き上げた。広島の監督就任1年目ながら、リーグ2位に導いた。
かつては年代別日本代表の監督として采配を振り、近年はFC東京、ヴァンフォーレ甲府、そして広島と、各Jクラブで手腕を発揮する城福監督。豊富な指導経験を持つ指揮官に、指導モットーや選手の才能を出させる方法などを聞いた。
(出典:『サッカークリニック』2019年1月号)

上のメイン写真=広島で2年目のシーズンを迎えた城福浩・監督。チームは現在、キャンプ地のバンコクで汗を流している(写真は2018年に吉田サッカー公園で撮影したもの) 写真/寺田弘幸 

熱を帯びていた
指導者たちの20年前

──城福監督は大学時代に教育学部で学びました。当時から指導者を志していたのでしょうか?

城福 教職課程を取り、教育実習にも行きました。ただし、教師や指導者になるつもりはほとんどありませんでした。大学を卒業して富士通に入社し、『日本サッカーリーグ(JSL)』でプレーしたときも、社会人として戦力になりたいと思っていました。練習後に会社に戻って仕事をすることもありましたし、「サッカーをしていても仕事ができる」ことを示したいとも思っていたので、指導者のことは頭の中にまったくありませんでした。選手である以上は練習にも試合にも一生懸命に臨みましたし、現役最後の3年間はキャプテンも務めました。ただし、現役を終えたら社業に専念し、「サラリーマンを一生やる」と考えていたのです。当時、JSL2部に所属していた富士通の監督を社命でやることになって指導者の勉強もしましたが、だからと言って指導者を続けるつもりはありませんでした。私はそれくらい、会社人として戦力になりたいと思っていたのです。
 しかしJリーグができ、J2リーグもできる流れの中で、当時のサッカー界はまだ赤子のような業界でしたが、産声を上げたばかりの業界で私も何かしたい気持ちが芽生えたのです。15年間勤めた会社を辞める決断をしました。
 そして、サッカー界にせっかく飛び込むのであれば「S級ライセンスを受講する」、「トップの成績で絶対に卒業する」と考え、講義も実技(当時は約3カ月の合宿研修)も貪欲に取り組みました。3カ月で大きな刺激を受け、卒業と同時に日本サッカー協会から誘われました。それから、「本当の意味でのコーチング」を学んでいくようになったのです。

──日本サッカー協会では育成年代の現場で活躍しました。

城福 トレセンで全国を回り、各地域で選ばれた優秀な選手を指導していました。その際、U–14、U–15、U–16といった代表を任されました。海外遠征にも行かせてもらい、メンバーを選考する仕事を通し、各地域の指導者と話せたことがすごく刺激になっていました。同時に、「指導する」、「育てる」といったことへの気持ちが日増しに強くなっていました。
 その頃、田嶋幸三さんから「U–17ワールドカップを目指す代表の監督をしてみないか?」と声を掛けてもらったのです。柿谷曜一朗・選手や齋藤学・選手の世代を任せてもらえるようになりました。当時のU–17世代はアジア(『AFC U–16選手権』)で勝てていませんでした。そのチャレンジにやり甲斐を感じていましたし、U–17世代の監督になったことは私にとってターニング・ポイントだったと思います。その後、AFC U–16選手権で優勝し、U–17ワールドカップに出場できました。ただし、本大会ではグループステージを突破できませんでした。「指導者としてのレベルを高めなければいけない」という思いが沸き上がったのです。

──城福監督がS級ライセンスを取得したのが1998年です。ちょうど日本がワールドカップに初出場した年です。日本サッカーが世界へ目を向け始めた時期だったため、日本サッカー協会内でも育成についてのさまざまな議論があったのではないでしょうか?

城福 先程も言ったように、各地域でさまざまな指導者に会うことができました。部活の顧問、Jリーグ下部組織の指導者、タウン・クラブの指導者など、さまざまな方と話すことができたのです。みなさん本当に、熱を帯びていました。もう20年前のことになりますが、指導の話を始めたら止まることがありません(笑)。情報の少ない時代でしたが、情熱は溢れていた感じがします。

──城福監督の仕事は日本サッカーとしての指導指針を決め、発信していくことだったと思います。

城福 当時、トレセン・コーチを務めていたのは、鈴木淳さん、内山篤さん、反町康治さん、大橋浩司さん、佐々木則夫さん、吉田靖さん、小林伸二さん、高橋真一郎さんたちです。後に、Jリーグや年代別日本代表などで監督を務めるメンバーです。このメンバーで「ああでもない、こうでもない」と話していました。多くの場合、指導指針をつくろうとすると小さくまとまるものだと思いますが、今挙げた指導者は一癖も二癖もある人たちです(笑)。田嶋さんや小野剛さんの下で彼らと議論を重ね、日本サッカーの指針をつくっていました。指導者として未熟だった私が、たくさんの刺激を得られる場所にいられたのは大きかったです。その中で自分自身の指導者としての指針もでき上がっていったような感覚もありました。

写真/寺田弘幸

戦力を最大限に高める
それがプロ監督の仕事

──2008年にFC東京でJクラブ・トップチームの監督に就任しました。トップチームの監督を務めるのは、それまでとは異なった仕事となったのではないでしょうか?

城福 そうですね。トップチームの監督はまず、「サッカーの求道者」であるべきだと思っています。観客を魅了するサッカーを追求するのか、勝利を優先するのか、あるいは若手を育てるのか、求めるものは監督によって違うと思いますが、求めるものを常に追い求めなければいけません。
 加えて、「各地域のエリートたち」をしっかり束ねなければいけません。小さい頃から自分の生まれ育った地域で厳しい競争に勝ってきた彼らは、背中に大きなものを背負っています。また、チームには18歳の選手もいれば、その倍の36歳の選手もいますし、文化や価値観の違う外国人選手もいます。そんなグループを、どうマネジメントし、まとめていくか――。プロなので当たり前のことですが、結果ですべてを評価される中で、この作業には独特の難しさを感じていました。

──監督とはリーダーでなければいけません。城福監督はどんなリーダーでありたいと思っていますか?

城福 繰り返しになりますが、私は結果がすべての世界にいます。ただし、どのような結果が出るかは誰にも分かりません。ですから、「結果がすべてではない」ということも言える指導者、リーダーでありたいと思っています。具体的には、選手の成長を促せる指導者になりたいと思っています。18歳の選手にはもちろんのこと、36歳の選手にも成長できるアプローチをしたいのです。選手にとって、成長を感じられるのはすごく大切なことです。選手の成長にアプローチできる指導者でないと、結果が出なかったときにその選手には何も残らなくなります。私にとって「成長」という言葉が大切なキーワードとなっています。

──2018年にサンフレッチェ広島の監督に就任し、Jクラブで指揮を執るのは3クラブ目となりました。各クラブで標榜するスタイルというのは、どのようにして決めていくのでしょうか?

城福 その前に、任されたチームの戦力を最大限に高めることを優先しています。それがプロの指導者だと思いますし、「こういうサッカーがしたい」というのはその次にあるべきことだと思うのです。
 標榜するスタイルを落とし込むには時間が必要です。しかし、結果を出すことも求められるのがプロの指導者です。まずは与えられた戦力を最大限に高めて結果を出し、そのあとにもし時間的猶予を与えられたら、標榜するスタイルに取り組む、という順番に選択の余地はありません。それが私の仕事です。華麗なプレーも必要だと思いますが、まずは勝つためにすべきことを追求し、個人とチームが最善を尽くすのがサッカーの本質だと思っています。選手を成長させ、勝利を追い求めることに大きな価値があります。

写真/寺田弘幸

個別アプローチに
楽しさを感じる

──若手へのアプローチも城福監督の特長の1つです。何を意識して行なっていますか?

城福 厳しい競争を生き残ってきた彼らのレベルはすごく高いです。以前と比べると、ベースは間違いなく上がっています。その中で私が常に意識しているのが「彼らの心に火を付けること」です。頭から湯気を出しながらサッカーに取り組めるようなアプローチを心がけています。そのアプローチによって選手たちがパフォーマンスを高めてくれることが、この上ない喜びでもあります。数年かかっても、活躍している姿が見られればとてもうれしいことです。将来を見据え、彼らの中にあるものを呼び起こしていく作業が必要だと思いますし、大好きな作業でもあります。

──例えば、どのように火を付けるのですか?

城福 選手は性格や特徴が個々で違うため、個別にアプローチしていく必要があります。マニュアルがないからこそ、楽しいのです。持論ですが、選手は悔しい思いを経験しながら成長していくものだと思っています。そして、なぜ悔しい思いをするかと言うと、情熱があるからです。
 試合に出るのはものすごく重いことなのです。大袈裟かもしれませんが、多くの人の人生が懸かっています。私は、そのことを分かっていない選手をピッチに送り出すわけにはいきません。「誰かが試合に出る」ということは、「誰かが試合に出られない」ということです。「誰かに代わって試合に出る意味があることを示せる選手」でなければいけません。理解した上でピッチに立ち、悔しい思いも経験しながら、次のチャンスをつかみにいくことが成長につながると思うのです。

──選手起用をはじめ、監督は多くのことを決断しなければいけません。決断にあたって大事にしている点はありますか?

城福 まずは自分の感性を高め、選手の一挙手一投足を見逃さないようにすることです。もう1つは、自分だけでは気づけないこともありますので、コーチ陣からの情報を入れやすいようにしておくことです。スタッフが同じ方向を向き、多くの情報が入るようにした上で、最後に私が決断します。決断できないときもありますが、悩んでも決断できないときはもう、直感に頼るようにしています。

──指導者の仕事に正解はなく、成果をなかなか感じにくいのかなと思います。指導者として成長していると感じる瞬間はあるのでしょうか?

城福 それは分かりません。私は思ったことをはっきりと言うタイプです。これまでは、物をはっきり言うことで自分のことを分かってもらってきました。しかし、自分が思ったことを言ったあとに「すっきりした」と感じるときが多々ありました。そういうときは、言いすぎていることが多かったのです(笑)。年齢を重ねるにつれて、今は何か言ったとしても、以前と比べてすっきりする感覚が減ってきていますので、バランスがとれてきたのかもしれません。

──監督業に定年はありません。今後も続けていきますか?

城福 1つのチームに監督の席は1つしかありません。その席にいられるありがたさは今も感じています。現在もそうですが、今後も、選手としてワールドカップや海外でのプレーなどを経験してきた選手が現役から退いたあとに指導者になり、数少ない監督の席を目指すことになるでしょう。私が監督の席に座り続けるためには、私自身が成長し続けなければいけません。過去に経験してきたことを踏まえ、引き出しを1つでも多くしていき、若い指導者には負けない気概を持って取り組んでいきたいと思っています。
 現代サッカーは戦術的な要素が高まっています。分析の仕方も含めてサッカーがどんどん細分化されてきています。そんな潮流の中で、チームにプラスになることをしっかりと見極めていきたいと思っています。膨大な量のデータに振り回されることなく、サッカーの本質をしっかりと見ながら、指導者として適切な道を歩んでいきたいと思っています。

(取材・構成/寺田弘幸)

写真/寺田弘幸

PROFILE
城福浩(じょうふく・ひろし)/ 1961年3月21日生まれ、徳島県出身。早稲田大学卒業後、富士通(現在の川崎フロンターレ)に入社。現役を退いたあとに同社の監督を務めた。97年に東京ガス(現在のFC東京)に移り、S級ライセンスを取得。日本サッカー協会に出向後は、2007年のU-17ワールドカップを目指すチームの監督に就いた。08年にはFC東京の監督に就任し、09年にヤマザキナビスコカップ(当時)を獲得。12年から3年間はヴァンフォーレ甲府で指揮を執り、18年からサンフレッチェ広島の監督を務めている

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