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2018-02-16

<Jリーグ2018 開幕直前!> ベガルタ仙台・渡邉晋監督の 「マイ・コーチング・ロード」

「クラブ初のOB監督」として、ベガルタ仙台を率いて5年目となった渡邉晋監督。
2014年の監督就任以降、トライ&エラーを繰り返しながら現在のスタイルにたどり着き、17年はルヴァンカップでベスト4進出に導くなど、手応えもつかめるようになった。仙台にとって初めてのタイトル獲得を目指す渡邉監督に、自身の考え方やこれまでの歩みを聞いた。
(出典:『サッカークリニック2018年2月号』)

取材・構成/小林健志 写真/庄子隆

手倉森元監督から
感じた「言葉の力」

──指導者になりたいと思ったのはいつ頃でしょうか?

渡邉 駒澤大学4年生のときに、「指導者になりたいな」というよりも、「指導者になるんだろうな」と思いました。「選手として私は一流になれないだろう」と感じていたのです。私の周囲には日本代表になった選手がたくさんいましたし、彼らには到底かなわないと思っていました。そこで、ゆくゆくは指導者の道に進み、彼らを追い越したいという思いが芽生えていったのです。プロ選手になる前から、「指導者になる」というイメージがありました。

──では大学を卒業し、プロ選手になってからは「指導者」をどのように捉とらえていましたか?

渡邉 練習をしながら、「この練習の意図って何だろう?」、「こういう意図であれば、監督が言うのとは違うことをやってみよう」など、考えながらプレーするのが好きでした。今思えば、指導者にしてみれば指導しづらい選手だったかもしれません(笑)。

──考えながらプレーする習慣はいつ頃からありましたか?

渡邉 桐蔭学園高校時代の李国秀・監督が選手に常に考えさせる方でした。考える習慣は高校生のときからあったと思います。そんな私が、「指導者」という職業を選ぶ発想になったのは自然なことでした。

──例えば、ベガルタ仙台の福永泰コーチと小林慶行コーチ、水戸ホーリーホックの長谷部茂利・監督、ガイナーレ鳥取の森岡隆三・監督、2016年に福島ユナイテッドFCを率いた栗原圭介氏(現在はヴィッセル神戸の強化部に在籍)など、Jクラブの指導者には桐蔭学園出身者が多いです。

渡邉 偶然ではないと思います。なぜなら、高校時代から論理的に考えることがベースとしてあるからです。その経験が、指導者という仕事を考えることにつながったのだと思います。
 ただし、こうした仲間たちのチームの試合を見ると、対戦相手やチーム状況もあるため、やりたいことができていないのではないか、と思ってしまう面もあります。実際、私もそういう時期がありましたから……。それでも、桐蔭学園出身指導者のトレーニングは見てみたいと、いつも思っています。

──指導者になってから影響を受けたものは何でしょうか?

渡邉 引退してからの2年間が財産になっていると思います。05年から仙台の事務所でネクタイを締めて働きつつ、巡回コーチとスクールコーチをしていましたが、その2年間が指導の原点です。
 子供たちに、「サッカーの楽しさ」や「ボールを蹴る喜び」を伝えることは意外と難しいものでした。例えば、「集合!」と言っても集まらない子供たちを集めるにどうすればいいかなどと考え、思い通りに進まないことがたくさん起こりました。そんな中、私が思うように60分のトレーニングを進行できたときはすごく楽しかったのです。それに、子供たちが少しずつうまくなっていく喜びも感じることができました。本当にいろんなことを考えることができました。
 当時のスクールコーチで、一緒に回って指導を手伝ってくれた壱岐友輔ジュニアユース・コーチと千葉雅俊・主務は、私より年下でしたが、この世界における経験値は上でした。彼らから教わったことがたくさんあり、私の指導のベースになっているのは間違いありません。

──07年に仙台のユースコーチに就任しました。

渡邉 ユース監督の内田一夫さん(現在は中国の銀川賀蘭山FCの監督)から学んだことはたくさんあります。プレーの感覚を子供たちに教えるのは本来難しいものですが、内田さんは考えが整理されていました。「こうすればこういうことが身につく」ということを論理的に指導できる方で、大変勉強になりました。

──手倉森誠(現在は日本代表のコーチ)さんが監督に就任した08年に、トップチームのコーチに就任しました。手倉森元監督から学んだことは何でしょうか?

渡邉 言葉の持つ力です。「人は指導者の言葉で大きく左右される」、「言葉はプロの世界でも大きな影響を与える」といったことを、誠さんと一緒にやった6年間でこれでもかと感じさせられ、学ばせてもらいました。2011年には東日本大震災が発生しましたが、あのときに誠さんが選手やサポーターに伝えた言葉が、大きなエネルギーを生んでいたのを肌で感じていたのです。もしあのとき私が監督だったら、誠さんが伝えたような言葉を言えたかどうか、と今でも思います。

今シーズンは富田晋伍、大岩一貴とともにキャプテンを任されることになった奥埜博亮(写真中央)。安定したパフォーマンスを見せられるボランチ(あるいはシャドー)としてチームに欠かせない

新スタイル確立が
及ぼした影響

──14年に就任したグラハム・アーノルド監督が4月に退任したあとに監督昇格となりました。当時はどのような思いだったのでしょうか?

渡邉 無我夢中でした。現在の自分であれば、2014年のようなタイミングで「監督をやってほしい」と言われても、引き受けていなかったと思います。冷静に振り返ると、無謀なことにチャレンジしていたなと思います。しかしあのときは、そんなことは一切思いませんでした。とにかく、「このチームが前に進むため、J1に残るためにやるしかない」という思いで引き受けていました。後悔はしていませんが、今思うとよくやったなと思います。
 私が監督を引き受けてから次の試合まで3日しかありませんでした。「今いる選手たちがいかに力を発揮できるか」、「前向きにゲームに向かえるか」などを考えたら、「(その前の)2013年までやっていたことをもう一回やろう」という考え方になったのです。

──どのあたりで自分の色を出そうと考えましたか?

渡邉 14年シーズンの夏前です。ワールドカップ開催による約1カ月のJリーグ中断期間のときに、攻撃面で工夫を凝らしたトレーニングをしました。結果としてうまくいかなかったため、シーズン終盤には残留争いに巻き込まれ、最後のほうの試合は自陣で守備を固めるスタイルを採りました。結果的に、時計の針を戻す形になってしまいました。

──15年もスタイルを模索したシーズンだったと思います。

渡邉 15年に初めて、私がキャンプからチームを率いることになりました。ただし、やりたいことを効果的に落とし込めたかどうかを振り返ると、そうではなかった気がします。やりたいことの理想と現実のバランスを私自身が取れず、チームとして地に足がつかない前半戦を過ごしてしまいました。
 しかし、8月にあった鹿島アントラーズ戦(2ndステージ第7節)で、2点先制しながら3点を奪われて負けてしまった試合を経験したことで、私の中で吹っ切れた感覚がありました。「自分のやりたいことをやろう」と、考え方を振り切ることができました。

──15年のオフには海外研修を実施し、16年シーズンからは、自陣に引いて守備ブロックをつくるのではなく、前から果敢にプレスしてボールを奪い、ポゼッション率を高める新スタイルの構築にトライしました。

渡邉 成績については不甲斐ない結果に終わりましたが、選手はスタイルに理解を示してくれました。何より、プレーしている選手が楽しくやっているように見えました。16年のキャンプからやってきたことに対する手応えもありましたし、やり続けて良かったです。クラブにもサポーターにも、我慢強くやらせてくれた点には感謝の言葉しかありません。16年シーズンのベースがあったから今があります。

──17年にはさらに進化させるべく、「5レーン」で立つ「3–4–3」システムを採用し、『Jリーグ YBCルヴァンカップ』ではベスト4進出という結果も残しました。仙台のスタイルを構築できている手応えはありますか?

渡邉 「スタイルをしっかり構築したい」という思いがあった中、一定の結果がようやく表れたと手応えを感じています。「レーン」という概念に関して言えば、私が「こういうサッカーをしたい」とトレーニングを考える中で、ポイントとなる動きを考えたり、言葉もつくったりして取り組んでみたら、ジョゼップ・グアルディオラ監督が率いていた頃のバイエルン・ミュンヘンなどのヨーロッパ・クラブがすでにやっていたことが分かったのです。
 私は「5レーン理論」をまったく知りませんでした。「こういう風に走らないとボールは届かない」、「この走り方を組み合わせると、空くスペースはここだ」など、約1 年前にコーチ陣と話し合い、「ピッチを縦に区切り、それに伴ってできたスペースを『レーン』と名づけよう」などと言っていたら、あとから「5レーン理論」というものを知ったのです。自分たちがやろうとすることに相通ずるものがヨーロッパにもあることを知ったのが自信の一つにもなりました。

──確固たるスタイルがあれば、スタイルに共感する選手が入ってくることもあります。17年に途中加入した古林将太・選手や野津田岳人・選手などが最たる例だったと思います。

渡邉 「歯車はこうやって回っていくのか」と思いました。「仙台ってこういうサッカーだよね」というものがあれば、「俺はベガルタに行ったら試合に出られるんじゃないか? ハマるんじゃないか?」という考えが選手側に生まれます。一方の私たちも、「こういうサッカーで勝ちたい」と思ったら、獲得したい選手を強化部に要求できるなど、話がスムーズに回ることを実感しました。スタイルを確立させなければ、「いい選手だけど、ベガルタに来たらどうなるだろう?」といった曖昧な形でしかチーム編成はできません。
 ベガルタのような、地方都市にあり、かつ予算規模も大きくないクラブが、この先20年、50年とJリーグにいることを考えた場合、確固たるスタイルがあり、スタイルに共感してくれる選手がたくさんいて、そんな中からいい選手が育っていくのが理想的だと思っています。選手が評価されて、ビッグクラブや海外からオファーがかかり、ベガルタが相応の移籍金を手にできれば、手にしたお金で新しい選手を獲得できたり、グラウンドやクラブハウスをさらに良くしたりすることができるかもしれません。それも、成功の一つと言えるでしょう。そんなクラブにしていきたいのです。

決勝の映像に
これまでにない悔しさ

──選手のポテンシャルを引き出すコツはありますか?

渡邉 多くのチームがある中で、「スタイルが明確になったベガルタでプレーしたい」という思いを持って集まってくれた選手が少なからずいます。その選手の能力をさらに高められるとしたら、ベガルタでのやり甲斐を感じてもらうことによると思います。それには、「ピッチの中でやりたいサッカーがある」のほか、「震災以降、クラブとしての使命がある点」、「地方都市のクラブとして存在感を出していく意義がある点」も、選手に共感してもらうのが大切なことだと思います。
 共感する部分があり、個々が「仙台でやってやろう」というやり甲斐を感じることができたら、選手としての幅は広がり、成長できると思います。私は選手を1人の人間として成長させたいですし、たとえ他クラブに移籍したとしても、「仙台で学んだことが活きている」と感じてもらいたいのです。

──若手との接し方で気をつけている点はありますか?

渡邉 「アメとムチ」を使い分けることの連続ですが、基本的には「ムチ」、厳しく接したいと思っています。今の若手は厳しいことを言われる経験が少ないと思いますが、理不尽なことの多い世の中でもあります。サッカーを辞めて社会に出たら、これまでとは比べものにならないくらいの理不尽な経験をするかもしれません。ですから、理不尽なことはなるべくベガルタで経験させてから社会に送り出したいのです。「ムチ」のほうをはるかに多くし、厳しく接したいと思います。ただし、厳しいだけだと選手はパンクしてしまうかもしれません。ときには優しい言葉をかけたり、笑顔で接したりします。根本にあるのは、選手たちへの愛があるからこその「ムチ」です。私なりの愛情は常に持つようにしています。

──指導者としての夢は何でしょうか?

渡邉 プロの指導者として、やはりタイトルを獲得したいです。ゆくゆくはクラブとして世界一になりたいです。17年シーズンはルヴァンカップでベスト4に進出しましたが、決勝をテレビで見たときの感情が、今までの試合を見るときの感情とまったく違っていました。「これ以上、テレビで見たくない」と思うくらい悔しかったのです。今後はその悔しさをどれだけ持続できるかが大切だと思います。
 一方、「ナベさんに出会ったからこそ、今の僕がある」と選手に言われるような指導者になりたいとも思っています。指導者としての理想はその一点に尽きると思います。私に関わった選手に対して影響力のある指導者でありたいですし、特に若手には多くを伝えていきたいです。

<PROFILE>
渡邉晋(わたなべ・すすむ)/1973年10月10日生まれ、東京都出身。現役時代は主にセンターバックとしてプレーした。桐蔭学園高校、駒澤大学を経て、96年にコンサドーレ札幌へ加入。97年からヴァンフォーレ甲府、2001からベガルタ仙台に在籍し、04年に現役を退いた。05年からは指導者として仙台と関わり、08年から14年までトップチームのコーチを務めたあと、14年のシーズン途中から監督就任。17年には『JリーグYBC ルヴァンカップ』でクラブ史上初となるベスト4進出に導いた。今年は監督5年目のシーズンとなる

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