いよいよ箱根駅伝が近づいてきた。観戦を心待ちにしているファンも多いが、心を動かされる大きな理由は、ランナー一人ひとりに物語があるから。そこに鮮やかな「コントラスト」があれば、なおさらだろう。かつて箱根駅伝を走ったランナーだった作家の黒木亮氏が10月に上梓した『袈裟と駅伝』。本書の内容を黒木氏に伺いながら、駅伝を味わうもう一つの視点をお伝えしたい。12月に発売された『陸上競技マガジン』、『クリール』の記事より抜粋編集してお届けします。
文/和田悟志
着想はボクシング世界チャンピオンとトレーナーの物語から
『袈裟と駅伝』。なんともインパクトのあるタイトルのノンフィクションが、駅伝シーズンを迎えた10月にベースボール・マガジン社より発売された。
「書き始める前に、タイトルは最初から決めていました」
こう話すのは著者の黒木亮氏。自身は早稲田大学競走部出身で、在学時には箱根駅伝を2度走り、3年時には瀬古利彦氏からタスキを受けてトップをひた走った実績がある。金融・経済小説で知られる作家の黒木氏が、自身の半生を綴った『冬の喝采』に続いて、駅伝をモチーフにしたのが『袈裟と駅伝』。執筆のきっかけはこうだ。
「日本人で初めて昭和27年にボクシングの世界チャンピオンになった白井義男さんと、トレーナーでGHQの調査員だったアルビン・カーン博士の物語に感銘を受けたからです。敗戦国の青年と戦勝国のトレーナーという2人のコントラストが鮮烈でした。そういうコントラストのある選手のことを書いてみたいなとずっと思っていたんです」
日本の漁業資源の調査に当たっていた博士はシカゴの裕福なユダヤ人ファミリーの出身。そのカーンが、焼け跡の銀座木挽町のボクシングジムで、見出したのが白井だった。日本人ばなれした長い手足、美しいフットワークと強力なパンチを持っていたが、坐骨神経痛で引退寸前の青年だった。この二人の物語である『カーン博士の肖像』(山本茂著)には強烈な「コントラスト」があった。
そして意外にも、それを持った人物は近くにもいた。黒木氏と同じ北海道出身で、1学年上で活躍していた大越正禅氏だ。
10歳で僧侶となったランナーはやがて箱根駅伝でも活躍
「そういえば、仏教の道を歩みつつ陸上競技をやっていた人が近くにいたな、と。僕は神主の息子だけど、仏教のことは知らなかったから、この機会に仏道に進む人はどんな修行をして、どんなことを考えているのかを知りたいなとも思いました」
実家が曹洞宗の寺で、8歳で得度して戒名を授かった大越氏は10歳で僧侶となり、中学生の頃には父親の手伝いで檀家回りもしていたという。一方で、走ることに魅せられ、陸上・長距離でめきめきとその才能を発揮し、全国トップクラスの選手へと駆け上がっていった。今や駅伝の強豪校となった駒澤大学に進むと、在学中には4年連続で箱根駅伝に出場し、山上りの5区で活躍。卒業後は大本山總持寺での厳しい修行を経て、住職として実家を継いだ。
「僧侶」と「ランナー」。まさに黒木氏が求めたコントラストのある半生を歩んできた人物だ。いったん順天堂大学への進学が決まりながら、曹洞宗関係者の意向で駒澤大学へと進路変更することを余儀なくされるなど、宿命ともいえる数多くの葛藤と決断が、『袈裟と駅伝』では描かれている。
陸上競技に欠かせない「記録」の再現ができた理由 この本を読んで驚かされるのは、約半世紀も前のことが鮮やかに、ラップタイムまでも含めて事細かく描写されている点だ。経済小説で活躍する黒木氏がこだわった部分でもあったが、実は、資料を集め始めてすぐに壁にぶち当たったという。
「大越さんは、練習日誌は持っていましたが、そのほか陸上に関して、当時を知る記録などは保存していませんでした。『これは書けないかな。やめようかな』と思ったときも何回かありましたね(笑)」
そんな折、黒木氏に詳細な資料を提供したのが、この物語の“影”の主人公ともいえる竹島克己氏だった。
「竹島さんは、青森―東京駅伝のプログラムから53年前の帯広―十勝川断郊競走の成績一覧表のコピーといった細かいものまでちゃんと取っていました。竹島さんと大越さんも参加した北海道士別市での順天堂大学の24時間リレーのようなイベントに関しても、15人の選手のラップタイム表や、当時の北海タイムスと北海道新聞の記事も保存されていました。練習日誌には自分のラップタイムだけでなく、大越さんのタイムまで記入してあるので、その几帳面さに驚きました。指導者になった方だけあって、研究材料としてずっと取っていたようです」
竹島氏は道立浦幌高校で大越氏の2学年先輩で、2年間の役場勤務の後に順天堂大学に進学し、箱根駅伝に4年連続で出場。4年目には復路の要の9区を担い、区間新記録で走ってチームの総合優勝を決定づけた。作品の中で描かれる大越氏とのライバル関係、友情は読みどころでもある。
若い読者にも得るものが必ずある一冊 大越氏や黒木氏が走った時代とは箱根駅伝もだいぶ変化した。それでも変わらないものも確かにあるはずだ。
「大越さんも竹島さんも、高校まで独学で練習を積んで全国的な選手になった。本書の中には2人の練習メニューも載せたので、その過程を参考にしてほしい。若い競技者にとっても、何か得るものが必ずあるはずと思っています」
円谷幸吉、澤木啓祐、森本葵、瀬古利彦など、往年の名ランナー、名指導者が数多く描かれるほか、黒木氏自身も目撃者として何度か登場し、読み応えのある一冊になっている。古くからの駅伝ファンも、若い読者も、地方の小さな町から日本のトップレベルまで駆け上がったランナーたちの足音に耳を傾けてみてはいかがだろうか。