元世界ウェルター級チャンピオンのホセ・ナポレス(キューバ/メキシコ)が亡くなった。1970年代のもっとも偉大なボクサーのひとりとして高い声望に浴した。また、ウェルター級史上で屈指の名チャンピオンとされている。享年79だった。

写真上=70年代のウェルター級で無敵を誇ったホセ・ナポレス
写真◎ゲッティイメージズ

キューバからメキシコへ亡命

 ナポレスのボクシングは世界中のファンから圧倒的な支持を受けた。ニックネームの “マンテキーヤ”(バター)は、バターを塗ったようになめらかな動きに由来する。身長171センチと決して大柄ではなかったが、短いスタンスですんなりと構えるアップライトの立ち姿は美しく、また、ときに応じてクラウチングスタイルから迫真の戦いに臨むこともあった。スピーディーであり、パンチはどこまでも正確にして迫力満点、さらに企画性に富むコンビネーションの自在感が素晴らしい。加えて、ディフェンス力もずば抜けていて、「相手の胸の動きを見ているだけで、その後、何をしてくるかのすべてがわかる」とナポレス本人も語っていた。

 1940年4月13日にキューバのサンティアゴ・デ・クーバに生まれ、アマチュアボクシングを学んだ。その戦績は113勝1敗とも114勝1敗とも伝えられる。18歳でプロに転向し、最初の3年間はキューバで活動した。だが、フィデル・カストロによるキューバ革命の成就とともにメキシコへの亡命を決意。何らのつてもないまま移民船に乗り、着いた港で収容所に収容された。1年後、ようやくプロ活動を再開。トップに向けて走り出す。ほどなくライト級の世界上位に進出した。

 1964年にはやはりキューバ出身の世界フェザー級チャンピオン、ウルティミノ・“シュガー”・ラモスとともに来日。ラモスが関光徳(新和)をTKOで退けたタイトルマッチの前座で、世界ランカーの吉本武輝(リキ)と対戦した。それ以前にはKO負けのない吉本を初回KOで下している。

 ただ、あまりに強すぎるが故、ときの世界チャンピオンから、ことごとく敬遠される。やがて『無冠の帝王』と呼ばれるようになった。ナポレスはウェイトを上げながら、辛抱強くチャンスを待った。やっとチャンスが巡ってきたのは1969年4月18日、アメリカ・カリフォルニア州ロサンゼルス近郊イングルウッドのフォーラムに1万5878人の大観衆を集めて、世界ウェルター級チャンピオンのカーチス・コークス(アメリカ)に挑む。技巧派のコークスを得意の左ボディブローから切り崩し、13回終了時に棄権に追い込んで、ナポレスは念願の世界チャンピオンとなった。

 翌年、サウスポーのビリー・バッカス(アメリカ)の頭から突っ込んでくる決死のファイトで両目上を切り裂かれ、負傷TKO負けでタイトルを手放したが、半年後の再戦では新チャンピオンのデンジャラスアタックを慎重に管理する。8回に2度のダウンを奪った末に今度はバッカスの左目上から流血させてTKO勝ちを飾った。

ウェルター級王座を通算13度防衛
ミドル級王者モンソンにも挑戦

 1974年にはフランスのパリで無敵の世界ミドル級チャンピオン、カルロス・モンソン(アルゼンチン)に挑む。だが、さしものナポレスも圧倒的な体格差を克服することができず、棄権TKOで敗退している。
 
 1975年、35歳のナポレスはジョン・H・ストレイシー(イギリス)にTKO負けして王座を明け渡して引退を決意した。終身レコードは88戦81勝(54KO)7敗(BoxRec)。2度の世界ウェルター級チャンピオン時代に合計13度の防衛に成功している。
 
 引退後は経済的に破綻し、一時はホームレスになったとも伝えられたが、WBC(世界ボクシング評議会)などの手助けもあり、最近は安定した老後を送っていたと伝えられていた。
 
 8月にはミドル級のスターボクサーだったジャン・クロード・ブーチェ(フランス)が74歳で死去している。俳優のアラン・ドロンがプロモートしたカルロス・モンソン挑戦はいずれも失敗に終わったが、フランス・ボクシング界最大の英雄マルセル・セルダンになぞらえてニュー・マルセル・セルダンと呼ばれたボクサーの死もショックだった。

 史上の残るグレートたちの相次ぐ逝去。オールドファンの記憶は、確実に過去のものになろうとしている。

文◎宮崎正博

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