今年6月3日夜、全日本プロレスの青木篤志さんが交通事故のため、搬送先の都内・病院で亡くなってから2カ月が経過した。全日本プロレスでは8月11日(日)に東京・後楽園ホールで「青木篤志追悼大会」開催。青木さんがデビューしたNOAHなどからもゆかりのある選手たちが参戦し、宮原健斗&青柳優馬&丸藤正道vs諏訪魔&石川修司&谷口周平、秋山準&杉浦貴vs野村直矢&熊野準、岡田佑介vs太田一平(セコンド・平柳玄藩さん!)など豪華なカードが出そろっている。
 大会も迫ってきたので、週プロで過去に連載していた「レスラーヒューマンストーリー」(2011年9月14日号掲載)を蔵出し。ぜひともあらためて青木さんがどんな道のりをたどって、どんな思いでプロレスラーになったのか知ってほしい。

友人に仕掛けられたパワーボムをきっかけに超世代軍のファンに

 青木篤志は生まれてすぐの頃は元気で活発であったが、そこまで手のかからない子どもだった。1歳ぐらいで自分のベビーカーに2つ年上の姉を乗せて押していたという。
 プロレスとの出合いは、同じ家に住んでいた曾祖父がとにかく大好きだったこと。よくヒザの上に座って一緒にテレビで、80年代前半の新日本を見ていたという記憶がある。
 スポーツは3歳で始めたスイミングを皮切りに幼稚園で合気道、小学生で野球とサッカーのチームに入団。ポジションは足の速さをいかし、1番センターとフォワードだった。
 プロレスにのめり込んだのは中学2年生の秋。児童館で遊んでいたら、唐突に友人の寺島君から「パワーボム、かけさせて」と言われたのだ。
「どうされるかもわからないまま、とりあえずアゴを引いていればいいとか言われて、安全マットの上に投げられました。何なんだ、コレは!?と思いましたね。寺島君に聞いてみたら、今、全日本プロレスが面白いからテレビで見てみろって。寺島君がそんなにはまるんなら、一度見てみようと思ったんです」
 時は超世代軍全盛期。天龍源一郎らが大量離脱した後の全日本は、ジャンボ鶴田という大黒柱へ、三沢光晴、川田利明、小橋健太(当時)ら若者が向かっていった時代だ。
 青木は寺島君に教えてもらった全日本プロレス中継を見た。ブラウン管の中では91年11・16後楽園の世界最強タッグ決定リーグ開幕戦、三沢&川田vsスタン・ハンセン&ダニー・スパイビーが放送されており、一発で超世代軍ファンになった。
「これはヤバイ、面白いと思いましたね。次の日すぐ本屋さんに行って、プロレス雑誌を買いに行きました。そこからどっぷりですよ。はまったどころじゃなくて、言い方悪いけどマニアでした(笑)。学校の勉強なんて全然しないのに、友達からもらった過去の週プロで、プロレスの勉強ばかりしてましたよ」

寝ても覚めてもプロレス。誠心会館入りを熱望も却下される

 朝起きて録画しておいた全日本中継を観戦。学校に行って友だちとプロレスごっこをやり、帰宅してまた過去のビデオなどを見る日々だった。
 中学3年生になると、それまで所属していたサッカー部に加えて、プロレスラーになるため格闘技がやりたかったので、異例だったが何とか柔道部も掛け持ちで入れてもらった。友だちが放った一発のパワーボムは、青木を一気にプロレスファンへと変貌させたのである。
 それだけに留まらず、強い憧れを抱き、プロレスラーになりたいとまで思うようになった。高校の進路も当時新日本で唯一好きだった誠心会館への入門を希望し「名古屋に行かせてくれ!」と両親に頼んだほどだ。
 母親がプロレス対して嫌悪感を覚えていたため、そのプランは却下された。それならばと、青木は週プロの選手名鑑を見直し、三沢と川田がアマチュア・レスリングをやっていたことを発見!
 そんな簡単なことを忘れていたのか…と青木は自分を恥じ、すぐに担任の先生に「アマレス部のある高校に行きたい」と打診。東京実業高等学校への進学が決まった。

鈴木みのるとの練習でパンクラスに憧れる

 そんなこんなで、アマレスを始めた途端にプロレスから遠ざかってしまうから人生は、不思議なものだ。練習があまりに忙しくて、まずテレビ中継が見られなくなり、ビデオに録画してもそのまま放置。週プロもだんだんと読まなくなり、部活漬けの毎日を送るようになる。
「身長も伸びなかったし、体もそんなに大きいわけじゃないから、プロレスよりも総合格闘技をやってみたいなと思ってたんです。ちょうど2つ上の先輩が修斗をやってたこともありますし」
 プロレスから総合格闘技へ興味が移り変わっていった頃、こんな出来事もあった。
「高校1年の時、冬の合同合宿に鈴木みのる選手が練習生だった國奥(麒樹真)選手と来たんです。ちょうど藤原組を辞めた頃。初めてプロレスラーを目の当たりにして、スパーリングをやってもらったんです。タックル入ったら、まず足の太さと体の厚みに驚きました。練習が終わった後、水飲み場で鈴木さんから『オメー、けっこう強いな』って言われたのを覚えてます。それで、カッコイイな。オレも、パンクラスに入りたいなって(苦笑)」
 この一件後、青木は週プロから格闘技通信へと購入雑誌を変更。学校のロッカーには、雛形あきこの隣に付録の鈴木みのるポスターを貼った。

高校卒業後、実家の電気工事業を継ごうとしたが…

 当時の全日本プロレスは180㎝なければ入門すらできない。総合格闘技への憧れは、間近で見た國奥の身長がそこまで高くなかったことも影響している。パンクラスなら小さい自分でもがんばれば、デビューできるかもしれないと感じたのだ。
 だが、アマレスの成績は東京都大会を勝ち抜き、95年の福島国体に出た程度。これでは希望していた大学進学の推薦も受けられないし、プロの世界で通用するわけがない。青木は夢をすべて諦め、実家の電気工事業を継ごうと決意しかけたのだが、事前に受けていた一般自衛官の試験に合格したことを告げる電話が。
「その時はレスリングをやるつもりは一切なかったんです。普通の自衛官プラス、趣味でボディービルでもやろうかなとか思っていたぐらい。その自衛官も社会勉強のつもりでしたので、大学の代わりに4年間くらい行って、いずれは家業を継ぐんだろうなと考えていました。この時はプロレスとか総合格闘技とかからは、完全に離れていましたね」
 普通の人生を歩もうとしていた18歳の青木だったが、後輩の父親がレスリング協会関係者で、その人からこんなことを言われたという。
「オマエには2つの道がある。自衛隊でレスリングを続けるか。行かないで1年間浪人して大学で4年間レスリングをやるか。そのどちらかだ」
 あまりに破天荒な質問に困った青木は、1年で辞めればいいやと思い「自衛隊でレスリングを続ける」と返答。すると、その協会関係者が工面してくれたようで、半年間の教育期間を修了した後、とんとん拍子で体育学校への道が開けてしまった。

自衛隊体育学校は1年で辞めるつもりだった

「とりあえずレベルの差を痛感しました。道場にオリンピックに出ている人がゴロゴロいて、同じ練習をするんですよ。ボクは高校生の時に強くもなかったから、なおさらでした。まともだったのは体力ぐらい」
 練習にはついていけないし、日々の雑用は山のように増えていく。果たして、これで本当に強くなれるのか。1年で辞めようと思っていた青木だったが、洗濯ばかりやって先輩たちから怒られたままで終わるのは、絶対にイヤだと、自分が納得するまでレスリングを続けようと決意する。
 以降、青木は約7年間、自衛隊体育学校でレスリングに没頭した。特別いい成績を出したわけでもないにもかかわらず、ずっと残れたのは、たまに全日本王者クラスの選手から金星を上げることもあったからだ。
「完全に青春なんてないですよ。結果がなかなか出ないのに、なんで打ち込めたか? 反骨心ですかね。レスリングやってて、とにかくいつも悔しかった。だから、7年も続けていけたんだと思いますね」
 青木がレスリングに区切りをつけたのは、アテネオリンピックの出場権を懸けた02年暮れの全日本選手権で、いいところなく敗北したことだ。相手は現在DREAMで活躍している宮田和幸。それと別に個人的な理由もあったが、03年6月から体育学校所属で通常の自衛官に戻った。

谷口のNOAH入りに心を動かされる

画像: 谷口のNOAH入りに心を動かされる

 次の転属先は青森駐屯地。体育学校でもやっていたチビッ子レスリングのコーチを、ライフワークにしようと思ったから選んだ。
 そんな03年の冬、体育学校時代の先輩ですでにNOAHでデビューしていた、杉浦貴からアマレス引退の慰労を兼ねて酒の席に誘われた。これが運命を変えることになろうとは、当時の青木は思いもしない。
「そもそも、なんでオレはこんなに長くレスリングやってたのかなって。それで考えていったら、オレ、三沢さんに憧れてプロレスラーになりたくて始めたんだってやっと思い出したんですよ。そうしたら、プロレスがやりたくてしょうがなくなっちゃったんです。その思いを飲んだ時に杉浦さんに言ったんですね。体が小さいし、メジャーじゃ無理ですよね?って話したら、杉浦さんは『それはダメだ。やるなら大きいところを目指せよ』って」
 プロレスラーになりたいという悶々とした思いを抱えながら、青木は今後の人生をどうすればいいか迷っていた。青森での仕事も新鮮で楽しかった。だけど、一度でいいから夢にチャレンジしてみたい。答えを出せぬまま時間だけが過ぎていく。
 そんな頃、自衛隊レスリング部出身の谷口周平がNOAHに入門するということを人づてに聞く。
「谷口さんは、ずっと杉浦さんからプロレスラーにならないかって誘われてたんですね。体はでかいし、実績もあるし、強かったし。正直、うらやましかったですね。オレは声かけてもらえなかったんですから。あの人、ずっとイヤだって断ってたのに、ボクが迷ってる時に試験受かったって聞いたんですよ。別にうらんでるわけじゃないですけど、やられた!って思いましたね」

杉浦に激怒された青森の夜。27歳でプロレス入りを決意

 その後、04年11月、北海道遠征から東京に戻る際にNOAH一行が、ちょうど青森に滞在する日があった。その日に青木は再び杉浦と酒を飲み、酔いに任せて「やっぱやりたいっすよ」と軽く言ってみたら…。
「オマエ、いい加減にしろよ。1年前に言った時に何もしなかったくせに、今頃になって何言ってんの? そんな気持ちで来られても困るし、そんなにやりたいなら、すぐにでも試験受けろよ!」と激怒された。青森での生活が充実していたこともあり、一歩踏み出せなかったのも事実。しかも、杉浦がいるNOAHは憧れの三沢が旗揚げした団体だ。こんなチャンスはないではないか。
 先輩の言葉は続く。
「今、オマエぐらいの身長で、オマエと違ってスポーツを何年も続けてたわけじゃないヤツが、一人でもがんばってるよ。ソイツは、オマエより体力も運動神経もないけど、雑用も一人でやりながら、スゲー一生懸命やってんだぞ」
 身長など関係なかった。問題は自分の一歩踏み出せない弱さだ。青木はその話を聞いて、自分もがんばればプロレスラーになれると気付いた。後日、その練習生が現在の平柳玄藩であることが判明するわけだが…。
 杉浦の叱咤激励で目を覚まされた青木には、さらなる偶然の出会いが待っていた。飲み屋を出たら、丸藤正道とバッタリ遭遇したのだ。
 プロレスラーになりたいという思いを杉浦から聞いた丸藤から「三沢さんなら小さくても採ってくれるよ。試験受けてみたら」とアドバイスされた瞬間、青木は決意した。年齢的にも27歳の今ならば、もう一度イチからがんばれるはずだ。体力的にもレスリングを辞めて1年しか経っていないので、まだ自信はある。
 杉浦と丸藤と会った次の日、青木は実家に「自衛隊、辞める。プロレスをやる」と電話した。もちろん母親からは大反対されたが、固い決意は変わらず。急きょ、帰京し、家族会議を開いた末に認めてもらう。
「不景気だから安定した自衛隊を辞めてほしくないというのは、親としては当然ですよね。一応、公務員ですし。前まではいつもどうしようかなっていうのがあって、周りに流されてた部分もあるけど、今回は絶対に自分の思ったことをやらなきゃダメだってすべて押し通しました」
 青木は自衛隊の小隊長と中隊長に自分の気持ちを告白した。本来であれば、仕事を辞めてから入門テストを受けるのが筋。だが、その上司は在籍しながらでもいいと寛容な姿勢で、夢への挑戦を後押ししてくれた。

まさかの新人タッグ…目の前が真っ白になったデビュー戦

 ちょうどNOAHの新弟子募集があり、さっそく履歴書を出した。入門テストは05年3月。それまで青木は訓練の合間を見つけて、腕立て伏せやスクワットに励んだ。
 さまざまなことが重なって開いた方舟への道。入門テストは見事、合格。同年4月いっぱいで自衛隊を辞め、5月からNOAHの寮に入る。
 その頃は、谷口、平柳に加え、すでに引退した伊藤旭彦、太田一平も練習生だった。多くの仲間に囲まれてデビューを目指していた日々は、青木とってかけがえのない思い出だ。
 05年12月、突然「シューズとタイツを注文しておけ」と言い渡された。その後、三沢から酒の場に呼ばれ「どれぐらいでデビューすると思う?」と聞かれた。
「平柳さんが8月のバトルロイヤルでプレデビューして、10月に正式出デビューしてたから、来年の2月くらいですか?って答えたんです。そしたら、三沢さんは『バカヤロー、あさってだよ! テメー、試合できんのかよ!?』って。できませんって言ったら、なしになるかと思って『はい。大丈夫です』って答えたんです。どうしようと思いましたね」
 突然のデビューを宣告された青木だったが、ジタバタしても何も始まらない。覚悟を決めて迎えた12・24ディファ有明。対戦カードは観客による公開抽選で当日に決定される形式だ。そこでまさかの事態が訪れる。
 なんと対戦相手が三沢光晴&田上明組となってしまったのだ。しかも、パートナーは同じくこの日デビューの太田。青木は現実を受け止めることができなかった。
「アレはいったいなんだったんでしょうね。先に三沢さんと田上さんが決まって、次にボクが相手の枠に入ったんです。絶対に太田さんだけは来るな!って祈ってたんですけど…生まれて初めて目の前が真っ白になりましたよ。初めての試合で相談できる先輩もいないし、自分の中で一番頼りないヤツがパートナーになっちゃった。控室に入って準備してたら、平柳さんから『試合終わったら、全員に無事デビューできましたって挨拶しろよ』って言われたんですけど、もう上の空でしたよ。新人同士がやることはあっても、組むことはめったにないじゃないですか。だって、2人ともリングの上で何をしていいかわからないんですから、試合が成立するかもわからないんですよ。ホントあせりました」

「背が低い。実績もない。若くもない。でも、いつか見ておけよ!ってずっと思ってます」

 青木はまったく予期せぬデビュー戦に面食らった。プロレスに憧れを抱いたまさにその人である三沢が目の前にいて、その隣には激闘をつむいでいた田上がいる。
 正常な思考回路でいられるわけがない。青木は半笑い状態でデビュー戦のゴングを聞いた。
「今、自分がプロレスラーになれたのは反骨心だけですよ。背が低い。実績もない。若くもない。それでもNOAHというメジャー団体にいるんですから、いつか見ておけよ!ってずっと思ってますから」
 プロレスラーになるまでは、何も結果を残せず、悔しさばかりが募った。だが、デビュー後メキメキと頭角を現し、今ではNOAHジュニアに欠かせない存在にまで成長している。何となく優等生に見られがちな青木だが、実はさまざまな挫折を乗り越え、ここまではい上がってきた反骨心の塊なのだ。(週刊プロレス・井上光)

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