※写真上=切れ味鋭い多彩なワザを駆使し、史上初の父子大関として脚光を浴びた増位山
写真:月刊相撲

 果たしてオレは、この大相撲の世界で大成できるのか――。
 周りのライバルたちとはもちろん、自分の心の中に渦巻く不安との闘い。そんな苦しい手探りの中で、「よし、これだっ。こうやったら、オレはこの世界で食っていけるぞ」と確かな手応えを感じ取り、目の前が大きく開ける思いがする一瞬があるはずです。
 一体力士たちは、どうやって暗闇の中で、そのメシのタネを拾ったのか。これは、光を放った名力士たちの物語です。
※平成4~7年『VANVAN相撲界』連載「開眼!! 相撲における[天才]と[閃き]の研究」を一部編集。毎週金曜日に公開します。

父の反対を押し切り強引に入門

 隅田川を渡ってくる風は、もうすっかり初夏の色に染まっていた。5月の陽の光にくすぐられ、若やいだ川面のきらめきが目に痛い。

 しかし、蔵前橋を渡る増位山(2代目、入門時の四股名は瑞竜、ここでは便宜上、増位山で統一する)の足取りは、まるで雪を含んだ冬の雪のように重たかった。

 ――オヤジよ、そんなに心配するなって。大丈夫。絶対に関取になってみせるからさあ。

 父(初代増位山、元大関)は、一人息子の入門に猛反対だったが、日大一高の3年だった増位山も一歩もあとには引かず、こう言って強引に飛び込んできた世界だった。

 父のような大関になれるかどうかはともかく、悪くても十両の関取にはなれる自信は胸にうずいている。なにしろ、入門する直前、小手試しに廻しを締め、部屋の力士たちと稽古しても負けなかったのだから。

 ところが、やはりプロの水は甘くなかった。初土俵は卒業直前の昭和42年(1967)初場所。それから3場所目の夏場所、それも序二段東81枚目という周囲は年下で、ろくに相撲も取ったことのない者ばかり、というアマ相撲に毛の生えたような地位で、なんと6番取って3勝3敗の五分。残る一番で、勝ち越すか、負け越すかが決まる、という大一番を迎えてしまったのだ。

 こんなスタートしたばかりのところで負け越すようでは、将来は知れている。増位山は、あまりにも早いプロの壁の出現に戸惑い、

「いかん、といったら、いかん。ここは、お前なんかの務まるような世界じゃないんだ。頼れるのは自分の力だけ。親の七光は、小指の先ほども通用せんのやぞ」となかなか首を縦に振ろうとはしなかった半年前の父の顔を目の前に浮かべた。

 いつかはオリンピックで金メダルを取ってやる。これが小学校時代から水泳のとりこになり、水泳部のある日大一中から日大一高と進んだ増位山の夢だった。

 若ノ花、貴ノ花の父の二子山親方(元大関初代貴ノ花)も、中学時代は水泳部で鳴らし、3年のとき、100メートルバタフライで中学新記録をつくって、一躍、将来のオリンピック金メダル候補、と注目されたことは有名だが、この増位山も100メートルフリースタイル(自由形)ではちょっとしたもの。高校3年のとき、山梨県甲府市で行われたインターハイの関東大会では、堂々と優勝している。

 しかし、このことが逆にオリンピックをあきらめ、父と同じ力士の道をたどるきっかけになったのは、いささか皮肉だった。

「実は、高校2年のとき、自己最高タイムの100メートル59秒台という記録を、3年生で1秒縮めよう、と自分で1年後の目標を設定し、それが達成できなかったら辞める、と心に決めていたんです。当時の日本記録が57秒台。少なくとも58秒台で泳がないと、オリンピック出場なんて、夢のまた夢でしたからね。でも、この関東大会の優勝タイムは相変わらず59秒台。これじゃ、これからいくらやっても全国レベルには達しそうもない、と思って、予定どおり、辞めることにしたんです。力士志望に転向したのは、門前の小僧、ではありませんが、もともと相撲が大好きでねえ。中学を卒業するときも、オヤジに、力士になりたいので、入門させてくれ、と言ったことがあったんですが、本当になりたかったら、大学を出てからだって遅くはないって反対されて。そのときは、まだ泳ぐことに興味があったのであきらめましたけど、今度はもう、そうはいきません。最後は、どうしても許してくれないんだったら、春日野部屋に弟子入りする、というのが決め手になって。ウチのオフクロが、『いいじゃありませんか、私も男だったら、力士になっていますよ』という援護射撃をしてくれたのも大きかったなあ。オフクロも、父や、兄弟3人が大阪相撲の力士、という相撲一家の育ちですから」

 と、それから15年後の56年春場所5日目に引退、3年後に停年になった先代の跡を継いで三保ケ関部屋の総帥となった三保ケ関親方は、蛙の子が蛙に孵化するまでのいきさつをこう打ち明ける。

画像: 反対していた先代増位山の父も、息子の決意にようやく入門を許可した 写真:月刊相撲

反対していた先代増位山の父も、息子の決意にようやく入門を許可した
写真:月刊相撲

序二段の入口で味わった「大勝負」

 この先代が、息子の増位山の入門に「ウン」と同意するまでには、まだ続編がある。息子や、おかみさんのミヨさんに責められ、とうとう崖っぷちまで追い詰められた先代が、

「そこまで言うんなら仕方ない。わかった、やってみろ。ダメだったら、ちゃんこ屋でもやればいいんだから」

 と白旗を上げると、

「まあ、親方がそういう逃げ腰でどうするんです。もし、あなたに、ワシが何がなんでも強くしてやる、という前向きの気持ちがないのでしたら、あの子がかわいそうですので、力士にするのはやめましょう。今だったら、まだ取り返しがききますから」

 とミヨさんが一転して猛反対。先代は、この孟母に、

「わかった。絶対、強くしてみせるよ」

 と改めて全力投球することを固く約束させられたという。父が師匠で、息子が弟子、という親子鷹は、長所も多いが、短所もあり、お互いに中途半端な気持ちでは、なかなか成功はおぼつかない。自分の実家がそうだったこともあって、ミヨさんは、そこのところを十分に承知していたのだ。

 こんな父子、両親の葛藤の末の入門だっただけに、増位山にも、意地や、気負いがあった。それが、この一気に駆け抜けるはずだった序二段の入口の苦戦で、たちまちシュンとしぼんでしまったのだ。

「このへんでは負けるもんか、と自信を持っていましたからね。もしあの最後の7番勝負に負け、3勝4敗と負け越していたら、ちょっとやそっとのことじゃ立ち直れないぐらい、打ちのめされていたのは確か。ひょっとすると、やる気をなくし、やめていたかも」

 と、三保ケ関親方は、この入門半年後に巡ってきた一番の持っていた意味の大きさを強調する。

 この運命の一番の相手は、高野という出羽海部屋の力士だった。精神的に追い詰められていた増位山は、体のあちこちがバリバリと音をたてそうなぐらい緊張して土俵に上がったところまではよく覚えているが、そのあと、どうやって立ち上がり、どうやって攻め、どうやって勝ったのか、まるで記憶がない。ただ、勝って勝ち越すということだけに全神経が集中し、とてもそれ以外のことにまで思いが及ぶ余裕がなかったのだ。

 その途切れていた思考回路が再び正常に戻ったのは、自分の勝ちを告げる行司の黄色い声がまだ閑散とした館内に響き渡ったときだった。

 ――やったあ、勝ったぞ。勝ち越した。増位山は、飛び上がりたい気持ちを必死に抑えながら、これから待ち受けている道の険しさと、謙虚さの大切なことをしっかりと心に刻み込んでいた。それは、怖いもの知らずの18歳の少年が初めて舐めたプロの塩っぱくて、苦い味だった。(続)

PROFILE
増位山太志郎◎本名・澤田昇。昭和23年(1948)11月16日、兵庫県姫路市出身。三保ケ関部屋。180cm109kg。昭和42年初場所、瑞竜の四股名で初土俵、43年夏場所に増位山と改名。44年名古屋場所新十両、45年春場所新入幕。55年初場所後、大関昇進。幕内通算59場所、422勝435敗、技能賞5回。昭和56年春場所、引退。年寄小野川から三保ケ関を襲名。59年11月に三保ケ関部屋を継承し、平成25年11月に停年。


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