※写真上=昭和55年初場所後、ワンチャンスをものにし、史上初の親子大関を実現した増位山
(左は師匠であり父の三保ケ関親方、右手前は幕下時代の北天佑)
写真:月刊相撲

 果たしてオレは、この大相撲の世界で大成できるのか――。
 周りのライバルたちとはもちろん、自分の心の中に渦巻く不安との闘い。そんな苦しい手探りの中で、「よし、これだっ。こうやったら、オレはこの世界で食っていけるぞ」と確かな手応えを感じ取り、目の前が大きく開ける思いがする一瞬があるはずです。
 一体力士たちは、どうやって暗闇の中で、そのメシのタネを拾ったのか。これは、光を放った名力士たちの物語です。
※平成4~7年『VANVAN相撲界』連載「開眼!! 相撲における[天才]と[閃き]の研究」を一部編集。毎週金曜日に公開します。

多芸で鳴らした現役時代

 一芸に秀でるものは多芸に通じる、というのは本当だ。父の先代は、まさにこれを地で行った多芸の人で、親方業のかたわら、油絵や、書や、刻字を趣味にし、弟子たちが足腰の痛みや、体の不調を訴えると、

「どこが悪いんだ、よし、ワシが治してやる」

 と自分で鍼まで打った。

「オヤジは、一つのことだけやっていては、幅というものが出てこない。他のいろんな芸を経験することによって、一芸に幅や奥行きが生まれるんだ、という信念を持っていたんですね。だから、弟子たちにも、なんでもいいからやってみろ、と盛んに趣味を持つことを勧めていました。北の湖も、油絵を描かされたことがありますよ」

 と三保ケ関親方(元大関増位山太志郎)は、このユニークな先代の弟子育成法を振り返る。

 増位山も、この薫陶を受け、稽古の合間に吹き込んだ『そんな夕子にほれました』というレコードが売上枚数120万枚という空前の大ヒットを記録したのは、まだ三役と平幕を往復していた昭和49年(1974)。二科展の油絵の部門に父子入選し、その常連となったのは51年のことだった。

画像: 多芸な父の薫陶を受け、増位山は美声でファンを魅了した 写真:月刊相撲

多芸な父の薫陶を受け、増位山は美声でファンを魅了した
写真:月刊相撲

父に教わった引き際の美学

 増位山が、前述したように初土俵から14年目の大関昇進、という遅咲きの花を咲かせたのは、こんな土俵外の肥やしのせいともいえる。その大関になった直後、増位山は、この父からこんな教えも受けた。

「二人だけで、久しぶりに酒を飲んだときだったんですけどね。そのとき、オヤジが珍しく真面目な顔で、『力士というのは、引き際が肝心、ワシもやめるときはパッとやめたんだ』。オヤジは、ここのところをとっても大切にし、いつも、『オレは死ぬときもパッと死ぬ、お前らに迷惑はかけん』というのが口癖でした。そして、遺言書を法的に正式なものにして1週間後(60年10月21日)、本当に急性心不全であっという間に亡くなってしまいました。こっちには、まだ教わることがいっぱいあったのに」

 と三保ケ関親方。その増位山の散り際は、意外に早くやってきた。そのきっかけが大関になって7場所目の56年春場所2日目。相手は入幕2場所目の若島津(のち大関若嶋津、現二所ノ関親方)だった。

「下手投げで勝つには勝ったんですが、これがなんと大苦戦。この若島津には、高校時代、ウチに来ないか、と声を掛けたことがあるんですよ。残念ながら、あと一押しが足りず逃してしまったんですが、もしかしたら弟弟子になっていたかもしれないその新鋭と大相撲になったのは、やっぱりショック。ああ、オレもおしまいだなあ、とそのとき、腹をくくったんです」

 増位山が引退を表明したのは、それから2日後のことだった。引退後は「小野川」を経て、59年11月3日、師匠の停年に伴って「三保ケ関」を襲名。名伯楽、と言われた先代に負けまいと、弟子の育成に励んだ。(終。次回からは大関・大受久晃編です)

PROFILE
増位山太志郎◎本名・澤田昇。昭和23年(1948)11月16日、兵庫県姫路市出身。三保ケ関部屋。180cm109kg。昭和42年初場所、瑞竜の四股名で初土俵、43年夏場所に増位山と改名。44年名古屋場所新十両、45年春場所新入幕。55年初場所後、大関昇進。幕内通算59場所、422勝435敗、技能賞5回。昭和56年春場所、引退。年寄小野川から三保ケ関を襲名。59年11月に三保ケ関部屋を継承し、平成25年11月に停年。


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