※写真上=入幕7場所目の昭和46年夏場所、3度目の技能賞を獲得した大受
(左は殊勲賞の貴ノ花、中央は敢闘賞の輪島)
写真:月刊相撲

 果たしてオレは、この大相撲の世界で大成できるのか――。
 周りのライバルたちとはもちろん、自分の心の中に渦巻く不安との闘い。そんな苦しい手探りの中で、「よし、これだっ。こうやったら、オレはこの世界で食っていけるぞ」と確かな手応えを感じ取り、目の前が大きく開ける思いがする一瞬があるはずです。
 一体力士たちは、どうやって暗闇の中で、そのメシのタネを拾ったのか。これは、光を放った名力士たちの物語です。
※平成4~7年『VANVAN相撲界』連載「開眼!! 相撲における[天才]と[閃き]の研究」を一部編集。毎週金曜日に公開します。

【前回のあらすじ】中学1年で北海道せたな町から上京した大受だったが、身長が規定の173センチに達せず、鉄棒にぶさ下がりながら必死の努力を続けた。しかし、身長は一向に伸びず、頭にシリコンを注入。その甲斐あって、入門から2年10カ月後の昭和40年春場所前、ようやく新弟子検査に合格する――

「洗脳」とも言える師匠の英才教育

「この野郎、廻しを取っちゃいかん、と何回言ったら分かるんだ。押せ、押すんだ!」

 という師匠の罵声とともに、手に持っていた竹刀が激しく振り下ろされ、また大受の右手がジーンと痺れた。

 押さば押せ、引かば押せ。押して勝つのが相撲の極意とはいっても、かつて自分が「疾風、枯れ葉を巻く」と表現された速攻力士だっただけに、高島親方(元大関三根山)の押しに対するこだわりと、情熱はケタ外れだった。

「押しがいいか、四つ相撲が向いているか。体型や体質、腕力のあるなしによって決めるのが普通なんだけど、ウチの部屋の力士だけは、体が大きかろうと、小さかろうと、一切お構いなし。入門すると、一人残らず、押し相撲に仕立て上げられました」

 と元瑞晃の小山田さん。

 背が低く、しかも体が丸っこくて柔らかい大受は、まさにこの押し相撲にうってつけ。高島親方は、大受をまるで天からの授かりもののように扱い、持論の押しを徹底的にたたき込んだ。

 稽古の最中、ちょっとでも手が廻しに触ろうものなら、バシッと竹刀で引っぱたかれるのはまだ序ノ口だ。本物の押し相撲力士を育て上げるには、本人を、

「オレは、廻しを取ったら絶対に勝てない。押す以外に、生きる道はないんだ」

 というところまで追い込む意識改造が必要だ。そうしないと、どうしても押すつらさに負け、本能的に廻しをつかんでしまうのだ。

 高島親方も、大受に、

「お前は、廻しを取って四つになったら、昨日、入ってきたばかりの新弟子にだって勝てない。大相撲界で、一番弱い力士がお前だ」

 と朝から晩まで吹き込み、周りにもそう言いふらした。すると、おかしなもので、大受は本当に、廻しを引いて四つになると、新弟子にも勝てなくなってしまったのだ。この種の暗示や宣伝が、いかに恐ろしい魔力を持っているか。過去の忌まわしい独裁者の歴史が如実に証明している。

「つまり、中途半端な気持ちでは、押されまいと身構えている人間を、押せるものではない、ということですよ。こうしないとオレは負けるんだ、と心底から思い込んで、一心不乱に押さないと。それほど、押し相撲というのは、簡単なようで難しく、信念のいるものなんです。とにかくどんな相手とやるときも全力投球。四つ相撲と違って、ごまかしや、遊びというものがありませんからね」

 と楯山親方(元大関大受、当時)は押し相撲の難しさや、つらさを明かした。

画像: 昭和46年夏場所7日目、藤ノ川を相手に鼻血を出しながら攻めまくった 写真:月刊相撲

昭和46年夏場所7日目、藤ノ川を相手に鼻血を出しながら攻めまくった
写真:月刊相撲

最後の迷いも押し出した藤ノ川戦

 この高島親方の英才教育が実って、大受の出世は順調だった。20歳の誕生日まで半年もある昭和44年(1969)秋場所に十両入りを果たし、翌45年の夏場所には入幕。いきなり9勝して、技能賞を獲得している。

 新入幕力士の敢闘賞受賞、というのは、それほど珍しくないが、技能賞は稀有で、28年秋場所の成山に次いで17年ぶり、史上2度目のことだった。

 しかし、このときの大受は、まだただ夢中で押しているだけ。それからちょうど1年後の46年夏場所7日目。関脇2場所目の大受は、まるで土俵上を水すましのように素早く動き回るところから、「牛若丸」というニックネームを持つ藤ノ川(当時東前頭2枚目、最高位関脇、先代伊勢ノ海親方)と対戦した。

 どちらも元気盛りのときである。軍配が返ると、二人とも目いっぱい持ち味を発揮。大受が押し、藤ノ川が土俵伝いに逃げる。というよりも、得意の引き足を使ってひらり、ひらりと攻撃をかわす、という展開になった。牛若丸と弁慶の京の五条の橋の上の戦いを絵に描いたような壮絶な「追いかけっこ」である。

「土俵を2周半ぐらい、したかなあ。最後はとうとう向こうを追い詰め押し出したんですが、あのときはさすがに自分でも、いやあ、よくついていけたなあ、とビックリしました。と同時に、こんな相撲を取ったら、たとえ負けたっていいや、とそれまで心の隅にしぶとく巣くっていた押しに対するわだかまりのようなものがスーッと消えたんですよ。それからですね、自分の押しに対して、これがオレの天職、という本当の信念と自信が出てきたのは」

 と楯山親方はこの22年前の「目覚めの一瞬」を振り返る。

 大受は、目まぐるしく逃げ回る藤ノ川とともに、自分の最後の迷いも押し出してしまったのだ。この場所、8勝7敗と勝ち越した大受は、入幕7場所目で3度目の技能賞を獲得。幕内を代表する若手の押し相撲の力士の地位を不動のものにしたのだった。(続)

PROFILE
大受久晃◎本名・堺谷利秋。昭和25年(1950)3月19日、北海道久遠郡せたな町出身。高島部屋。177cm150kg。昭和40年春場所、本名の堺谷で初土俵、42年春場所に大受と改名。44年秋場所新十両、45年夏場所新入幕。48年名古屋場所、大関取りで史上初の三賞独占、場所後に大関昇進。幕内通算42場所、462勝388敗31休、殊勲賞4回、敢闘賞1回、技能賞6回。十両に陥落した昭和52年夏場所4日目、引退。年寄楯山から平成9年に朝日山を襲名、部屋を継承した。27年3月に停年。


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