このまさかの2場所連続の幕下優勝で浮上のきっかけをつかんだ麒麟児のその後の軌跡は、目ざましい、の一言に尽きた。

※写真上=関脇復帰の昭和51年秋場所2日目、2場所連続で横綱北の湖を撃破
写真:月刊相撲

 果たしてオレは、この大相撲の世界で大成できるのか――。
 周りのライバルたちとはもちろん、自分の心の中に渦巻く不安との闘い。そんな苦しい手探りの中で、「よし、これだっ。こうやったら、オレはこの世界で食っていけるぞ」と確かな手応えを感じ取り、目の前が大きく開ける思いがする一瞬があるはずです。
 一体力士たちは、どうやって暗闇の中で、そのメシのタネを拾ったのか。これは、光を放った名力士たちの物語です。
※平成4~7年『VANVAN相撲界』連載「開眼!! 相撲における[天才]と[閃き]の研究」を一部編集。毎週金曜日に公開します。

激しく火花を散らした「ニッパチ対決」

 十両をたった4場所、それも最後はみごとな優勝で通過し、幕内に駆け上がると、入幕3場所目の昭和50年(1975)初場所から夏場所まで3場所連続して敢闘、技能、敢闘と三賞を獲得し、それこそあっという間に三役に定着。北の湖や、若乃花(2代)、大錦らの若さとライバル意識をむぎだしにした「ニッパチ対決」は、当時のファンを熱狂させるドル箱カードになった。

 しかし、麒麟児の真の素晴らしさはこの急激な開花ではない。力士の華やかな頂点は、いつもあっという間のことだ。このまばゆい光に包まれた一瞬が過ぎ去ったあとも決して投げやりにならず、どうひたむきに相撲に打ち込むか。力士たちにとって、このつらく、苦しい自分との戦いを繰り広げているうちに自然に帯びてくるいぶし銀色ほど、誇れる輝きはほかにない。麒麟児の偉大さも、この一気に華やかさを極めたあと、途中で一度、十両に落ちるという屈辱も経験しながら、さらに11年余りも第一線の幕内でコツコツと頑張った粘闘ぶりにある。

 日の出の勢いだった麒麟児が失速する原因となったのは、ご多分に漏れず、下半身のケガだった。

「自分は、入門したときから、押し一辺倒。廻しを取ると、親方にものすごく怒られたものでした。押し相撲は動きが身上ですから、どうしても足首や、ヒザを痛めやすいんですね。最初のケガは右足首(52年夏)。初日の2日前、大徹(元小結、現湊川親方)と稽古してるときにやりましてね。やった直後は、たいしたことない、と思ったんですけど、風呂からあがったら、歩けなくなってたんですよ。それから左ヒザでしょう(54年春)。何とかこの痛んだ下半身を鍛えなくちゃと、晩年は電車に乗っても座らず、吊り革につかまって立つようにしたんです。結婚して(東京の)市ケ谷に住んでいましたからね。でも、やっぱり最後は、ヒザ、足首ともにガタガタになりました」

 と北陣親方(元関脇麒麟児)はだんだん自分の攻撃力を殺いでいったケガのあとをたどる。

 それは、麒麟児が4回目の殊勲賞を受賞して4年後の57年春場所のことだった。この間の麒麟児は、前述のように左ヒザを痛めて十両落ちするなど、およそ日の当たる場所や、賞とは無縁の低迷が続いていた。

 年齢は29歳。もうこのぐらいのベテランになると、どこに行っても親しくしている後援者や、ファンの一人や二人はいるものだ。麒麟児にも、大阪郊外の茨木市に家族同様の付き合いをしている後援者がおり、大阪に来ると自宅にうかがうのが何よりの楽しみだった。

 その後援者の奥さんに、年齢が5つ上で、麒麟児にとっては兄のような弟がいた。もちろん、こちらも大の麒麟児ファン。その弟が不治の病の白血病で入院している、というのを聞き、びっくりしてお見舞いに駆け付けたのは初日が目の前に迫っている春日和の午後だった。

「これしきの病気に負けてどうするんです。頑張ってください」

 麒麟児が手を握り、名前を呼んで励ますと、その弟はすっかり血の気のない顔を上げ、

「おお、関取か。頑張らんといかんとは思っているんやけど、なかなか力が出てこないんや。オレ、もうアカンかもしれんな」

 と弱々しく首を横に振った。

「何を言っているんですか。まだこれから、という年齢なのに。それはまだ頑張り方が足りないんですよ。よし、分かりました。まだヒザの状態がよくないけど、今場所、オレが頑張り方の手本を示してあげます。よく見ててくださいよ」

 このとき、麒麟児は決して自信があったわけではない。前頭5枚目という地位や、体調を考えると、むしろ見通しは逆。それはいきがかりで、つい口から飛び出した買い言葉だった。

 これを裏付けるように、初日の蓋が開くと、麒麟児は、相手が闘竜、若乃花、隆の里、若嶋津(現二所ノ関親方)という元気者ばかり、ということもあったが、いきなり初日から4連敗。たちまち苦境に追い込まれてしまっている。

「関取、どうしちゃったの。弟も毎日、テレビを見ながら、とっても心配してるわよ。頑張って」

 この4日目の夜、姉である奥さんからかかってきた電話で、麒麟児は、自分がとてつもなく重大な責任を負わされていることを改めて痛感した。

 ――このままでは、オレは嘘つきになるし、あの人も気落ちして治る病気も治らなくなっちゃう。今場所のオレには大事な人の命がかかってるんだ。なんとしても勝って、あの人との約束を守らないと。

画像: 昭和57年春場所、5日目から11連勝し3度目の敢闘賞を受賞。右は殊勲・技能賞の出羽の花 写真:月刊相撲

昭和57年春場所、5日目から11連勝し3度目の敢闘賞を受賞。右は殊勲・技能賞の出羽の花
写真:月刊相撲

約束守った3度目の敢闘賞

 その夜、明け方まで自分の不甲斐なさを責めた麒麟児は、翌日から顔付きが一変した。すると、どうだ。まるで勝負の神がこんな悲壮な麒麟児を後押しでもしているように相手の攻めが狂いだし、面白いように白星が重なり始めたのだ。戦い終えてみると、なんと5日目から千秋楽まで驚異の11連勝。あの幕下で2場所連続優勝して以来、麒麟児の幕内最高連勝記録である。

 しかも、この獅子奮迅の戦いぶりは高く評価され、7年ぶり、3度目の敢闘賞まで掌中に。

「オレは約束を守ったぞ。さあ、今度は、あなたが頑張る番ですよ」

 その翌日、麒麟児は、もらったばかりの大きなトロフィーをプレゼントするために抱え、病室に駆け込んで行った。

「三賞は合わせて11回もらいましたけど、あのときの敢闘賞ほど思い出深いものはないですねえ。弟さんも、とっても喜んでくれましてね。枕元にそのトロフィーを飾り、また病気と闘う元気を取り戻してくれたんですが、2年後、とうとう力尽きて亡くなってしまいました。死んだ、という知らせを聞いたときはさすがにガクッとなりましたが、自分は、あの人によって、オレたちだって、周りの人にこんな勇気や、元気を与えることができるんだってことを、教えてもらいました。生涯、忘れられない人の一人ですよ」

 と北陣親方は語っている。

 麒麟児の引退は、それからさらに6年後の63年秋場所。通算出場回数1562回。引退する4場所前の63年春場所、西7枚目で10勝して4度目の敢闘賞を受賞したことが象徴しているように、麒麟児はこのときの教えを忠実に守り、35歳でやめる直前まで全力投球をし続けた。(終。次回からは関脇・金剛正裕編です)

PROFILE
麒麟児和春◎本名・垂沢和春。昭和28年3月9日、千葉県柏市出身。二所ノ関部屋。182cm128kg。昭和42年夏場所、本名の垂沢で初土俵。49年初場所新十両、麒麟児に改名。49年秋場所新入幕。最高位関脇。幕内通算84場所、580勝644敗34休、殊勲賞4回、敢闘賞4回、技能賞3回。63年秋場所で引退し、年寄北陣を襲名。二所ノ関部屋で指導に当たる。平成30年3月8日、停年退職。


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