――この世には、こんなに強い人がホントにいるんだ。

※写真上=昭和58年夏場所後、22歳の若さで大関に昇進し前途洋々の北天佑
写真:月刊相撲

 果たしてオレは、この大相撲の世界で大成できるのか――。
 周りのライバルたちとはもちろん、自分の心の中に渦巻く不安との闘い。そんな苦しい手探りの中で、「よし、これだっ。こうやったら、オレはこの世界で食っていけるぞ」と確かな手応えを感じ取り、目の前が大きく開ける思いがする一瞬があるはずです。
 一体力士たちは、どうやって暗闇の中で、そのメシのタネを拾ったのか。これは、光を放った名力士たちの物語です。
※平成4~7年『VANVAN相撲界』連載「開眼!! 相撲における[天才]と[閃き]の研究」を一部編集。毎週金曜日に公開します。

【前回のあらすじ】中学を出たら三保ケ関部屋に入門する、という小学校4年のときの親方との約束を果たし、北海道室蘭市から上京。天賦の素質に恵まれながらも淡々と力士生活を送っていたが、先を越されたライバルに感化され、十両入りを果たす――

幕下時代から無敵・兄弟子の稽古台

 力士になり、初めて廻しを締めて土俵に降りたとき、北天佑の目に、山のようにも、雲のようにも映ったのが北の湖だった。兄弟子とはいえ、向こうは北天佑が入門する2年前にもう横綱になっている。強くて当たり前だったが、その強いという感覚がまるで違っていたのである。

 そのバランスのとれた体の上に、

「コイツを北の湖の次の米櫃に育て上げ、息子(増位山太志郎)に部屋を譲るんだ」

 という青写真を描いていた先代が、北天佑に北の湖の専用稽古台を命じたのは十両目前で必死にもがいていた昭和55(1980)年九州場所前のことだった。その稽古台暮らしが60年初場所にこの大横綱が引退するまで、ずっと続いたのだ。

「いつもクビの骨が折れるんじゃないか、と心配になるぐらい横綱の胸を目掛けて思いっきり当たっていくんですよ。ところが、向こうは蚊か何かが当たったぐらいにしか感じていないんですから。こっちがまだ幕下のときには、それも分かります。でも、大関になったってほとんど同じなんですから。あの強さをどう表現したらいいのか。とにかく空恐ろしかったですねえ」

 二十山親方(元大関北天佑)はその無敵ぶりを思い出し、ため息をつく。

 ――あんな人の後釜になんか、オレにはとっても務まらないよ。ホントに師匠は、オレのことを次の米櫃を思ってるのかなあ。

 十両をたった3場所で通過し、周囲の熱気が高くなるにつれて、北天佑のクビをひねる回数が多くなった。横綱の胸を借りれば借りるほど、だんだん自信がなくなっていくような気がしたのである。

 しかし、入幕して8勝、8勝と2場所連続して勝ち越していることでも分かるように、この厳しい稽古の成果が着実に身に付いていることは確かだった。こんな自己不信にとりつかれている中で迎えた56年春場所3日目、入幕3場所目で早くも東5枚目まで駆け上がった北天佑は、若乃花(2代目)と顔が合った。北の湖以外に、初めて対戦する横綱である。

 その初チャレンジが明日という夜、北天佑は、

「今夜はうまいもんでも食って、うんとパワーをつけようやないか」

 と大阪後援会長の誘いを受け、一緒に食事をした。そのときこの胸の奥でくすぶっている不信を訴えると、後援会長は手を大きく横に振って、こう言った。

「何言うてるねん。この前、師匠と飯を食うたときも、アイツを横綱にしなかったらオレの恥だ、と言うてはったで。お前は間違いなく大物、次の米櫃なんや。もっと自信を持ってやらんかい」

 こう尻をたたかれてその気にならない若者は、生まれついての小心者かよほどの変人だ。20歳というのは、こういうふうに上手にあおられるとすぐ火がつく年代なのである。

画像: 北天佑(後列右)の援護射撃が功を奏した昭和59年夏場所、北の湖が24回目の優勝を決めた 写真:月刊相撲

北天佑(後列右)の援護射撃が功を奏した昭和59年夏場所、北の湖が24回目の優勝を決めた
写真:月刊相撲

偉大な兄弟子に最高の恩返し

 翌日、土俵に上がった北天佑はいつもより胸を張っているように見えた。そして、その気迫がそのあとの動きにも。相撲の流れは、若乃花に得意の左四つ十分に組まれ完全に向こうのペースだった。上手が取れない北天佑は、たちまち寄り立てられ土俵際で上手投げを打たれると、たまらず大きく泳いだ。

 ところが、この投げを打たれた拍子に、密着した両者の体が離れ、握力96キロという北天佑の左手がまるで神に見入られたように若乃花の廻しに引っ掛かったのだ。これを逃すともう二度とチャンスはない。北天佑が夢中でその下手から投げを打ち返すと、ちょうど体が伸び切っていた若乃花は、ひとたまりもなかった。絵に描いたような下手投げ一閃、まさにもんどり打って土俵下に転げ落ちていった。横綱戦、初挑戦初勝利。文字どおりの大金星である。

 ――これで、師匠の期待に万分の一でも応えることができたぞ。

 北天佑は、感激と興奮で顔を真っ赤にしながら、チラッと土俵下の控えに視線を走らせた。そこには勝ち残りの北の湖がいる。きっと兄弟子もこの金星を喜んでくれているに違いない。そう思ったのだ。

 ところが、跳ね返ってきた北の湖の視線は、なんだ、弾みで勝っただけじゃないか、と言わんばかりに冷ややかで、かつそっけないものだった。

 ――ちくしょうっ。こういう勝ち方じゃだめなのか。じゃあ今度は、横綱のほうからニッコリするような、文句のつけようのない金星を挙げてやる。

 これが、この日から北天佑の新たな目標になった。ところが、横綱相手にその会心の勝ち星を挙げるまで実に3年半も要してしまった。

 無敵を誇った北の湖もさすがに歳月の流れには逆らえず、57年に入ると左ヒザを悪化させ、休場することが急に多くなった。こんな晩年の北の湖に、突然、昔の恋人を思い出したように浮気者の勝利の女神が微笑みかけられたのは59年夏場所だった。初日から全盛時代を彷彿とさせるような力強い相撲で白星を重ね、57年初場所以来、2年半ぶりに優勝のチャンスをつかんだのである。この最後となる優勝を目指し、衰えた体に必死にむち打ってひた走る北の湖に、最後まで追いすがったのが横綱隆の里だった。

 北天佑はこの隆の里と13日目に顔が合った。この時点で、すでにトップの北の湖と隆の里の差は2つついており、北天佑がこの一番に勝てば、北の湖の24回目の優勝が決定することになっていた。ちょうど1年前、この偉大な兄弟子にかわいがられたおかげで大関に昇進した北天佑にとっては、あつらえたように恩返しのチャンスである。

 ――今日だけはなにがなんでも負けるワケにはいかない。オレが、この手で横綱に優勝をプレゼントしてやるんだ。

 こう心に固く期して土俵に上がった北天佑は、立ち合いの当たりで横綱を圧倒。一歩、攻め込んでおいて引き落とすと、隆の里はまるでつっかい棒を外されたようにアッケなく両手を突いてしまった。完勝である。

 勝って北の湖の優勝が決定した瞬間、北天佑は3年半前と同じように西の土俵下を振り向いた。兄弟子がどんな顔をしているか。のぞき見したくなったのである。そして、この採点の厳しい横綱が大きく微笑んでいるのをその目でしっかり見届けると、神聖な土俵上にもかかわらず、自分の顔もほころぶのを止めることができなかった。

 自分を見つめている北の湖の視線の中に「ありがとう」という感謝の気持ちとともに、

「そうだ、そうやって思い切りやるんだよ。相撲は気迫。もうお前も一人前だな」

 という待望の合格点がこもっているのが分かったからだ。

 この4場所後に北の湖は引退。これが北天佑がこの大横綱から授かった最後の生きた教えになった。(続)

PROFILE
北天佑勝彦◎本名・千葉勝彦。昭和35年8月8日、北海道室蘭市出身。三保ケ関部屋。183cm139kg。昭和51年春場所、千葉で初土俵。53年春場所、北天佑に改名。55年夏場所新十両、同年九州場所新入幕。58年夏場所、初優勝を果たすと、場所後に大関昇進。幕内通算60場所、513勝335敗52休。優勝2回、殊勲賞1回、敢闘賞2回、技能賞1回。平成2年秋場所7日目に引退し、年寄二十山を襲名、分家独立し二十山部屋を創設。幕内白露山を育てるも、18年6月23日、45歳の若さで没。

『VANVAN相撲界』平成6年10月号掲載

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