まるでレンズの焦点が合うみたいにどんな力士にも心技体の3つがピタッとかみ合う瞬間がある。益荒雄にとって、それがこの昭和61(1986)年九州場所から翌年の夏場所にかけてのおよそ半年間だった。

※写真上=2横綱4大関を連破し”益荒雄旋風”を起こした昭和62年春場所、初の殊勲賞を受賞(右)。左は技能賞の花乃湖、中央は敢闘賞の栃乃和歌(現春日野親方)
写真:月刊相撲

 果たしてオレは、この大相撲の世界で大成できるのか――。
 周りのライバルたちとはもちろん、自分の心の中に渦巻く不安との闘い。そんな苦しい手探りの中で、「よし、これだっ。こうやったら、オレはこの世界で食っていけるぞ」と確かな手応えを感じ取り、目の前が大きく開ける思いがする一瞬があるはずです。
 一体力士たちは、どうやって暗闇の中で、そのメシのタネを拾ったのか。これは、光を放った名力士たちの物語です。
※平成4~7年『VANVAN相撲界』連載「開眼!! 相撲における[天才]と[閃き]の研究」を一部編集。毎週金曜日に公開します。

【前回のあらすじ】幕内と十両を往復し、苦悩の真っ只中にあったが、4度目の入幕を果たした昭和61年九州場所、以前から研究していた相撲を試してみた。腹をくくって前に寄って出ると、強敵は土俵の外へ。開眼の瞬間だった――

突如現れたニューヒーロー

 この九州場所で右差しからの速攻を会得した益荒雄は、翌場所も初挑戦の上位相手に大奮戦。9日目には、初日から連勝を続けていた横綱双羽黒をやはり右差し一気の相撲で寄り切り、初の金星を挙げるなど、東4枚目という厳しい地位で見事に勝ち越し。初の技能賞を受賞している。

 このニューヒーローの誕生で大フィーバーが起こったのは、益荒雄の出身地の糸田町だった。この糸田町の主産業は炭鉱だったが、30年代初めからエネルギー革命の余波をモロに受けて閉山が相次ぎ、とうとう町を走っていた国鉄のローカル線も廃線。町民の多くが職を失って、町内の生活保護受給率は人口1000人当たり195.1人と全国でも指折りのワースト地区になっていた。絵に描いたような斜陽の町だったのである。

 そんな暗い町に、突然、降って湧いたように英雄が出現したのである。これ以上の町興しの材料はない。さっそく商店街は益荒雄が勝った日は3発の花火を打ち上げ、後援会はこの郷土の誇りの新しいニックネームの募集を始めた。その応募数は、全国から2300通にもおよび、次の場所中に町長を中心に後援会メンバーによる審査が行われた。その結果、満場一致で選ばれたのが「白いウルフ」だった。

 ウルフというのは、このとき、すでに優勝回数が20回に達していた横綱千代の富士(現九重)のニックネームである。その千代の富士に、体つきも相撲っぷりもよく似ており、しかも色白、というところからみんなの賛同を得たのだ。

 確かに、右を差し、息をつかせぬ素早い寄りで相手を追い詰めていくさまは、獲物に襲いかかる飢えたウルフさながらだった。そして、小結に昇進したこの春場所、益荒雄のウルフぶりは最高潮に達した。初日、またまた双羽黒をその速攻で血祭りに上げ、波に乗ると2日目は大関大乃国(現芝田山親方)を右からの蹴手繰りでものの見事に横転させ、さらに朝潮(現高砂親方)、若嶋津(現二所ノ関親方)、北天佑と、大関陣に4タテを食らわしてしまったのだ。

 ――ああ、オレ、どうなっちゃったんだろう。

 支度部屋に引き揚げてきた益荒雄は、ゲンをかついで初日から取り替えずにいる山吹色の着物に袖を通しながら、自分が空恐ろしかった。あまりにも、やることなすこと図に当たり過ぎるのだ。いまにこの反動で、何か悪いことがきっと起こりそうな気がした。しかし、勝利の女神はしっかりと自分に微笑みかけている、という実感だけはある。

「よしっ」

 と益荒雄は下腹に力を入れ直した。改めてこの女神にトコトン身をまかせる気になったのだ。

画像: 昭和62年春場所7日目、2度目の挑戦で”本家”千代の富士を倒した 写真:月刊相撲

昭和62年春場所7日目、2度目の挑戦で”本家”千代の富士を倒した
写真:月刊相撲

ついに”本家”と対戦 

 6日目、惜しくも北勝海(現八角理事長)に負けて5大関総なめはならなかったが、翌7日目はいよいよウルフの本家、千代の富士との対戦が待っていた。軽く一蹴された前の場所に次いで2度目の顔合わせである。

 益荒雄は下積み時代、ずっと兄弟子の青葉城(最高位関脇)の付け人を務め、小さい横綱にたたき付けられ、唇をかみ締める一門の力士たちの姿を見てきている。そんなとき、益荒雄はいつも、

「オレなら、こうやってこう攻める」

 と自分なりの千代の富士攻略法をこっそり立てたものだった。残念ながら初対決のときは不発に終わったが、またまたこれで数え切れないぐらい図上演習をやってきた攻略法を実行に移すチャンスが巡ってきたのだ。

 右の相四つ。しかし、右四つにいくと千代の富士に得意の左上手を引かれるので、まず左を差し、次いで右も差し勝って、モロ差しになり、寄る。作戦は細部までできあがっている。あとはどこまでそのとおりにやれるか、だけだった。

 その千代の富士戦。すでに神がかっていた益荒雄は、なんの雑念も疑問も抱かず、横綱の懐目掛けて思い切り突っ込んだ。そして、本当に左から右とモロ差しに成功したのである。あとは、もう全力で前に出るだけ。まず右の外掛けで崩し、土俵際に追い詰めたところで両廻しを離し、全体重をぶつけるようにして押すと、さしもの千代の富士も積み木が崩れ落ちるようにドッと土俵下に転落していったのだ。

「一生に一度でいいからあの人に勝ちたい、と思っていました。自分の夢だったんです。でもまさか勝てるなんて。これ、本当でしょうねえ」

 半分、夢見心地で引き揚げてきた益荒雄は、黒山のような報道陣に取り囲まれ、こう言うのが精いっぱいだった。

 とうとうその手で兄弟子や、一門の関取たちができなかったことをやったのだ。

 ――これで少しは恩返しができたかなあ。

 その夜、益荒雄は付け人たちと久しぶりに街に出ると、ささやかに祝杯を上げた。そのときの酒の味を、阿武松親方は今でもよく覚えている。それはまさに一生に一度の甘露だった。

 この大一番のあと、益荒雄はスタミナ切れを起こして9勝止まりに終わってしまったが、前半の大活躍を高く評価されて初の殊勲賞を獲得した。これで3場所連続の三賞受賞である。さらに、翌場所もまたまた千代の富士を土俵際で打っ棄って2連破し、2場所連続の殊勲賞を獲得。これで三賞の連続受賞記録はもう一つ伸びて「4」に。

 福岡県の小さな町でつけられた「白いウルフ」というニックネームは、あっという間に全国に広がり、当時の日本では知らない者はいないぐらい超有名になってしまった。(続)

PROFILE
益荒雄広生◎本名・手島広生。昭和36年6月27日、福岡県田川郡糸田町出身。押尾川部屋。188cm119kg。昭和54年春場所、手島で初土俵。58年名古屋場所、新十両時に益荒雄に改名。60年秋場所新入幕。62年春場所、横綱大関を撃破し旋風を起こす。幕内通算20場所、111勝125敗64休。殊勲賞2回、敢闘賞2回、技能賞1回。平成2年名古屋場所に引退し、年寄錣山を襲名。4年9月に阿武松に名跡変更、6年10月に分家独立し、阿武松部屋を興した。小結若荒雄、阿武咲、幕内大道らを育てる。

『VANVAN相撲界』平成6年11月号掲載

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