一病息災、とはよくいったものだ。幕下で力士生命まで危ぶまれる左ヒザのケガを負った巨砲だったが、その後の歩みは快調そのもの。昭和54(1979)春場所に入幕すると、それからなんと引退する3場所前の平成4年初場所まで丸13年間、78場所も連続して幕内の座を守っている。

※写真上=昭和59年秋場所6日目、横綱千代の富士を外掛けで破り、8個目の金星を獲得した
写真:月刊相撲

 果たしてオレは、この大相撲の世界で大成できるのか――。
 周りのライバルたちとはもちろん、自分の心の中に渦巻く不安との闘い。そんな苦しい手探りの中で、「よし、これだっ。こうやったら、オレはこの世界で食っていけるぞ」と確かな手応えを感じ取り、目の前が大きく開ける思いがする一瞬があるはずです。
 一体力士たちは、どうやって暗闇の中で、そのメシのタネを拾ったのか。これは、光を放った名力士たちの物語です。
※平成4~7年『VANVAN相撲界』連載「開眼!! 相撲における[天才]と[閃き]の研究」を一部編集。毎週金曜日に公開します。

【前回のあらすじ】稽古場で横綱の胸を借りた十両時代。無我夢中でぶつかっていくと、なんと横綱に3連勝。入幕4場所目の昭和54年秋場所、その若乃花を寄り切り初金星を挙げると、大物食いの魔力のとりこになり、引退するまで10個の金星を獲得することになる――

協会から贈られた、とっておきの若返り薬

「実際はいろいろピンチをくぐり抜けているんですよ。昭和60(1985)年九州場所には、右ヒザを痛め、次の初場所が終わったあと、半月板の半分以上を摘出する手術もしていますし。手術の後っていうのは、力が全然入らないんですよ。平成5(1993)年秋場所、やっぱりヒザの手術をしたばかりの巴富士(4勝11敗)大敗しましたけど、あの巴富士のじれったさは手にとるように分かったなあ」

 と大嶽親方(当時、元関脇巨砲)はしきりにこの後輩の同病者に同情していたが、巨砲はこんなケガや、手術を次々に克服していく強靭な精神力を持っていた。

 それをまざまざと見せつけたのが、この手術をした直後の61年春場所2日目だった。巨砲はまだ傷痕も生々しい右足を引きずりながら土俵に上がると、前の場所、自己2度目の3連覇を記録している元気いっぱいの千代の富士をものの見事に破り、通算10度目の金星をもぎ取ったのだ。

 ――コツコツやっていれば、いつかいいことがあるってことさ。

 このときのどんな銘酒にも勝る陶酔感は、今も大嶽親方の体の奥にはっきりと残っている。

 しかし、現役時代も長く重ねるとこの巨砲の心意気も曇りがちに――晩年の巨砲は、まるで夜中にトイレに行く子どものように、自分の影や、足音におびえる毎日だった。防ぎようのない心身の衰えである。

「入幕したときの体重が134キロで、身長が181・5センチ、上から数えて何番目かの大きい方だったんですよ。ところが、だんだんその体がしぼんでくるわ、周りは大きくなるわ、で引退する直前は小さい方から何番目でしたからね。あれは何とも言えないぐらい寂しかったですねえ」

 と大嶽親方はしみじみと話す。

 平成3年夏場所初日、協会はこんな巨砲に、とっておきの若返り薬を贈った。これまでの奮闘の労に報い、「幕内連続10年以上勤続」の特別表彰をしたのだ。

「夢にも思っていなかっただけに、あれはうれしかったですね。あれで、まだまだやらなきゃ、という気になりました。ウチは、その後、若い力士がなかなか出てきませんでしたからね。だれか、育ってくるまでは頑張らないと、と思いましたね」

 と、大嶽親方。しかし、この特効薬も、もう限界間近だった巨砲にはたった1年しか効かなかった。このちょうど1年後の平成4年の夏場所、十両に転落していた巨砲は、千秋楽まで土俵を務め、静かに現役から退いた。関脇3場所を務め、幕内通算出場1170は史上15位。また通算出場回数1562は史上13位。

 継続は力なり。

 この格言を心の支えに、大嶽親方は人生の新たな“開眼”を目指した。(終。次回からは関脇・出羽の花義貴編です)

PROFILE
巨砲丈士◎本名・松本隆年。昭和31年4月18日、三重県四日市市出身。二所ノ関→大鵬部屋。183cm146kg。昭和46年夏場所、大真で初土俵。52年名古屋場所新十両、53年春場所、巨砲に改名。54年春場所新入幕。最高位関脇。幕内通算78場所、533勝637敗。殊勲賞2回、敢闘賞1回、技能賞1回。平成4年夏場所に引退し、年寄大嶽を襲名。9年7月に楯山に名跡変更、20年9月退職。

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