大広間で雑魚寝している仲間たちのやすらかな寝息が、右からも左からも聞こえてくる。今、彼らは一体どんな夢の世界に遊んでいるのだろうか。布団に入ったものの、もう何時間もなかなか寝付かれず、悶々としていた出羽の花(初土俵のときの四股名は、本名の野村、昭和50年夏場所、十両昇進のときに出羽の花と改名。ここでは便宜上、出羽の花で統一する)はそっと首を上げ、暗い部屋の中をうらやましそうに見回した。

※写真上=学生横綱を獲得しプロ入り後、苦労するも後年、関脇昇進を果たした出羽の花
写真:月刊相撲

 果たしてオレは、この大相撲の世界で大成できるのか――。
 周りのライバルたちとはもちろん、自分の心の中に渦巻く不安との闘い。そんな苦しい手探りの中で、「よし、これだっ。こうやったら、オレはこの世界で食っていけるぞ」と確かな手応えを感じ取り、目の前が大きく開ける思いがする一瞬があるはずです。
 一体力士たちは、どうやって暗闇の中で、そのメシのタネを拾ったのか。これは、光を放った名力士たちの物語です。
※平成4~7年『VANVAN相撲界』連載「開眼!! 相撲における[天才]と[閃き]の研究」を一部編集。毎週金曜日に公開します。

プロ入りを決断させた大学選手権

 ――このまま卒業してすんなり就職しても、ああ、やっぱり、あのとき、思い切ってプロでやっていればよかったなあ、とあとで後悔するような気がしてしょうがないんです。どうしたらいいでしょうか。

 元力士で、浅草で喫茶店をやっている小山内清三さん(2代出羽ノ花、最高位は前頭13枚目)を訪ねた4カ月前のことがもう随分遠い日のことのような気がする。

 日大を卒業したら、実業団に入って相撲を楽しむ。こう決めて、すでにその就職先も和歌山県庁に内定していた出羽の花の人生の青写真を、まったく別物にしたのは、昭和48(1973)年秋の大学選手権が原因だった。

 出羽の花は、青森県北津軽郡中里町(現中泊町)の出身。相撲が盛んな土地柄と、父の姉の子、つまり出羽の花にとってはいとこにあたる小山内さんが元プロの力士、ということもあって、中学に入ると相撲一途に。3年のとき、早くも郡大会で優勝して大物の片鱗をかいま見せている。

 五所川原農林高に進学すると、その相撲熱はますますエスカレート、3年のとき、全国から強者が集まるインターハイで3位に入賞する、という勲章をものにし、青森に野村あり、を大いにアピールしたものだった。このとき、準決勝で出羽の花を破り、さらに決勝でも勝って、見事高校横綱になったのは、石川県の七尾商高の舛田という巨漢だった。のちの舛田山(元関脇、現常盤山親方)である。

 高校を卒業すると、出羽の花は相撲部が強い日大に進んだ。出羽の花のセールスポイントは足腰の良さとともに、アイツが一度廻しをつかんだら、たとえ雷が鳴っても離れない。と、まるですっぽんのように恐れられたケタ外れの握力である。プロ入り後も、リンゴを手でギュッと握り潰した、という伝説を生み、「人間ジューサー」という大仰なニックネームを奉られている。

 この出羽の花の握力の最盛期が日大に在学中だった。

「長年、相撲を取っていると、どうしても突き指などでだんだん握力も落ちてくるんですよ。出羽海部屋に入門したとき、よくマスコミの人が面白がって、左右とも100キロと、オーバーに取り上げましたけど、実はもうあのとき、100キロなかったんですよ。一番あったのは、やはり日大の2~3年じゃないのかなあ。あの頃は、本当に利き腕の右が100キロ以上ありましたから」

 と後年、出羽の花はこうもらしている。

 この握力と足腰の良さを生かして、出羽の花はたちまち日大でも頭角を現し、4年のときにはキャプテンに選出されている。

 ところが、こんな出羽の花にも、いつもいいところまでいくと、目の前に立ちはだかる天敵がいた。インターハイで負けた拓大の舛田だ。プロ入り後の舛田は、188センチの長身を生かし、突っ張りを得意にしたが、このアマ時代は右四つ専門。100キロそこそこしかなかった出羽の花は、身長も体重も、一回り大きな舛田に、完全に馬力負けしていたのである。

 学生生活最後の大学選手権の決勝でも、またまた、この舛田との顔合わせに――。

 ――ああ、また、アイツにやられちゃうのか。

 このときの出羽の花の、半分うんざりしたような表情が、ありありと目に浮かぶ。しかし、勝利の女神というのは、とてつもないイタズラ好き。この大一番でも、予想に反して、それまで舛田に一回も勝ったことがない出羽の花に、突然振り向くと、優しく微笑みかけた。

 出羽の花の左からの上手投げに、なんと苦手の舛田がもんどり打って土俵下に転落していったのだ。思いもしなかったナンバーワン、学生横綱である。

 野球にたとえると、この完封負け寸前の9回裏にかっ飛ばした「逆転サヨナラホームラン」が出羽の花の血をあやしくかきたて、第一歩を踏み出すばかりになっていた人生設計の見直しをしきりに強いた。

 それまで、オレには無理だ、とあきらめ、胸の奥にしまいこんでいた、プロでやりたい、という熱い思いがふつふつと頭をもたげてきたのだ。やっと一矢を報いた舛田が、春日野部屋の入門する、という情報も、この出羽の花のプロ指向に油を注いだ。

「そうか、そんなにやりたかったら、やったらどうだい、お前の、力士としての素質は、オレなんかよりずっと上、努力次第じゃ、三役も十分狙えるよ。でも、入るんなら、大きな部屋にしとけ。その方があとあと絶対にいいから。よし、オレが今でも出入りしている出羽海部屋に口を利いてやる」

 この小山内さんの一言で、出羽の花がプロ入りにちゅうちょしていた最後の障害が消えた。初土俵は翌49年3月の春場所。東幕下付け出しが出羽の花で、西の付け出しが舛田改め舛田山だった。

プロ入り直後に味わった、痛烈な洗礼

 そして、この不安と希望が猫の目のように交錯する滑り出しで、またしても女神は過酷なイタズラを。舛田山は持ち前の馬力を生かした思い切りのいい相撲で5つの勝ち星を挙げ、あっさりと勝ち越したが、出羽の花は対照的に予想外の苦戦。前半の4番相撲までに、あと1番勝てば勝ち越し、という3勝を挙げ、スタートはまずまずだったが、そこからプロ力士たちの猛反撃を受けて3連敗。3勝4敗と、とうとう負け越してしまったのだ。

 学生横綱のプロ入りは、この出羽の花が豊山(元大関)、輪島(元横綱)に次いで3人目だったが、初土俵で負け越したのは初めてである。

「そりゃあ、あのときのつらさといったらなかったですよ。プロは結果優先で、言い訳のきかない世界ですから、なんだか自分だけがダメ人間になったような気がしましてねえ。夜なんか、寝付けるはずがありませんよ。この精神的な落ち込みから抜け出す方法はただ一つ。考え込まないで、頭を空っぽにすることでした。考えれば考えるほど、出口のない袋小路に追い込まれるだけですから。まだ力士生活のスタートを切ったばかり。勝負はこれからだ、と自分に言い聞かせて、ね。でも、これが難しくて。実際は、やっぱり考え込むことが多かったなあ」

 と、それから14年後の63年初場所限りで引退し、年寄出来山を襲名した出羽の花改め出来山親方は、この20年前のプロの洗礼を浴びた日のことをため息まじりに振り返った。

 石川啄木が花を買って妻のもとに帰ったのは、おそらくこんな周りの者が偉く見える日だったに違いない。出羽の花は、夜の暗い闇の底で、神経がくたくたになり、束の間の眠りが襲ってくるまで、自分の不甲斐なさを責め続けた。この地獄の釜の中を這いずり回るような苦しみが、本物のプロに生まれ変わる、最も効果的で、最もてっとり早い荒療治であったことに思い当たったのは、それからずっと後のことだった。(続)

PROFILE
出羽の花義貴◎本名・野村双一。昭和26年5月13日、青森県北津軽郡中泊町出身。出羽海部屋。186cm122kg。昭和49年春場所、野村で幕下60枚目格付出。50年夏場所新十両、出羽の花に改名。52年九州場所新入幕。最高位関脇。幕内通算62場所、441勝483敗6休。殊勲賞1回、敢闘賞5回、技能賞4回。63年初場所に引退し、年寄出来山を襲名。出羽海部屋付きの親方として後進の指導に当たる。

『VANVAN相撲界』平成6年3月号掲載

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