足が完治した後、舛田山は、この力士の趣味としては非常に珍しいレース鳩の飼育を本当に始めている。

※写真上=昭和55年九州場所、横綱若乃花から金星を挙げ、初の殊勲賞に輝く(前列右)。
左は敢闘賞の佐田の海、後列左は殊勲賞・隆の里、右は技能賞・千代の富士
写真:月刊相撲

 果たしてオレは、この大相撲の世界で大成できるのか――。
 周りのライバルたちとはもちろん、自分の心の中に渦巻く不安との闘い。そんな苦しい手探りの中で、「よし、これだっ。こうやったら、オレはこの世界で食っていけるぞ」と確かな手応えを感じ取り、目の前が大きく開ける思いがする一瞬があるはずです。
 一体力士たちは、どうやって暗闇の中で、そのメシのタネを拾ったのか。これは、光を放った名力士たちの物語です。
※平成4~7年『VANVAN相撲界』連載「開眼!! 相撲における[天才]と[閃き]の研究」を一部編集。毎週金曜日に公開します。

【前回のあらすじ】アマ相撲界のエースだった舛田山は、父の後押しで春日野部屋に入門。幕下付け出しから順風満帆な出世を続け、十両昇進を果たすが、4場所目の青葉山戦で右足のカカトを負傷し2カ月に及ぶ入院生活を余儀なくされた――

どん底を救ってくれたレース鳩

「とは言っても、巡業や地方場所などで東京にいることは少ないし、飼う所もないので、管理のほうは江戸川区のほうに住んでいる同好の人にお願いしていたんですけどね。鳩というのは、年に3回、2個ずつ卵を産むんです。だから最初は30羽でも、100羽ぐらいに増えるのは簡単。それをいろいろ調教し、あちこちで行われているレースに出すんですけど、自分の鳩も青森-東京間のレースに優勝したことがあるんですよ。とにかく相撲漬けの毎日ですからね。そんな中を縫って、週1回か2回、江戸川まで鳩に会いに行くのが現役時代の最高の楽しみであり、息抜きでしたねえ」

 と、千賀ノ浦親方(元関脇舛田山、現・常盤山)は、このレース鳩の話になると、身をグッと乗り出す。

 鳥の飼育を趣味にしている人は、犬や猫などの動物を飼っている人に比べて、心が繊細でだれからも好かれる平和人間が多いそうだ。相撲っぷりも淡白でいつもニコニコしている舛田山は、この“分析”にぴったりの人種だった。

 ただ、手術が成功して土俵に復帰したものの、肝心な成績のほうは、以前のように順調ではなかった。右足はまだ100パーセント完治してはいなかったのだ。このため昭和51(1976)年初、春の2場所、幕下に陥落するという憂き目にも遭っている。

 こんな不本意な浮き沈みを繰り返し、また、暑い日差しが降り注ぐ夏がやってきた。51年名古屋場所の舛田山の番付は、奇しくも骨折した1年前と同じ東7枚目だったが、今度は8勝7敗と一つの勝ち越し。この場所が終わると、いよいよ東北、北海道地方を1カ月余りかけて転々とする夏巡業である。

 カラッとした北国の空気をお腹いっぱい吸いながらの稽古、初めてのお客さんとの出会い、新鮮な食べ物。1年前とは打って変わった生活を堪能していた舛田山が、

「オイッ」

 と、後ろから声を掛けられたのは、もうこの夏巡業が半ばを過ぎた時だった。慌てて振り返ると、そこには、当時、人気絶頂の大関貴ノ花が立っていた。

「もう足はいいのかい」

「ハイ、だいじょうぶです」

 と舛田山は、入門前から大の貴ノ花ファンだっただけに、思わずその場に立ち尽くし、声を震わせながら答えた。

「そうか。あのケガさえなかったら、すぐ顔が合うと思ってたんだよ。まあ、しっかり稽古して、早く上がってこいよ」

 時間にするとほんの数分のことだったが、舛田山にはこの貴ノ花の言葉がどんな妙薬よりもありがたかった。

 ――あの大関が、そんなふうにオレを評価してくれていたんだ。ようし、頑張るぞ。そして、一日でも早く対戦して、励ましてもらった恩返しをしないと。

 舛田山は、急に目の前が大きく開けたような気がした。

あこがれの大関との初対戦

 しかし、舛田山がこの貴ノ花の胸を借りるようになるまでには、それから4年の月日を要した。十両に再復帰して4場所目には幕内に昇進したが、55年春場所には、また十両に落ちるなど、なかなか幕内の壁を突破することができなかったのだ。

 ようやく舛田山がこの貴ノ花と顔を合わせたのは、55年名古屋場所6日目のことだった。

 ――大関、あれから随分時間を食ってしまいましたが、やっとここまで上がってきました。一生懸命取りますので、よろしくお願いします。

 舛田山はこう心に念じ、このあこがれの人には自分の成長ぶりを見てもらうつもりで、いつものように思い切って突っ張って出た。貴ノ花のほうも、この舛田山の戦法は計算済み。うまく頭を下げて突っ張りをかいくぐると、サッと右で廻しをつかんだ。このまま大関に食い下がられてしまっては、結果は火を見るより明らかだ。舛田山は必死に振りほどくと、間髪を置かずに十八番の必殺技(?)を繰り出した。全盛期の千代の富士(横綱)も食ったことがある叩き込みだ。

 すると信じられないような事態が目の前に。なんと下半身の粘りには定評のある貴ノ花がバッタリと両手をついてしまったのだ。

「目をこする思い、と言うのはああいうことを言うんでしょうねえ。もう、うれしいなんてもんじゃありませんよ。あのころのうちの部屋には、栃赤城、金城といった三賞や、横綱、大関を倒す常連がいたんです。いつか自分もあんなふうになりたい、と思っていたんですけど、実はこの前の場所、ようやく敢闘賞をもらいましてね。その翌場所、この勝ち星でしょう。よし、これでオレもついに2人の兄弟子に肩を並べることができた、という思いも重なって、花道をピョンピョン跳ねながら引き揚げたことをよく覚えていますよ」

 と、千賀ノ浦親方(当時)は目を細くする。

 若い力士が上に伸びていくためには、必ずいくつかの関門をくぐり抜けないといけない。舛田山は、夢心地で勝ち名乗りを受けながら、長いこと心に突き刺さっていた棘が、一つやっと抜けたような気がした。(続)

PROFILE
舛田山茂◎本名・舛田茂。昭和26年4月10日、石川県七尾市出身。春日野部屋。186cm150kg。昭和49年春場所、舛田山の四股名で幕下60枚目格付出。50年初場所新十両。51年九州場所新入幕。最高位関脇。幕内通算47場所、313勝387敗。殊勲賞2回、敢闘賞1回。平成元年名古屋場所に引退し、年寄千賀ノ浦を襲名。16年秋場所後、分家独立し千賀ノ浦部屋を創設。幕内舛ノ山を育てる。30年9月、常盤山に名跡変更。

『VANVAN相撲界』平成6年4月号掲載

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