寒い夜空に緑の大屋根が浮かび上がるなか、すっくと立った櫓の上からテンテンバラバラと軽快に打ち出される太鼓の音に乗って、『満員御礼』のお客さんたちが散っていく――。打ち出しの風景はどの場所で見てもいいものだが、初場所は格別だと私はいつも思う。

※写真上=平成4年夏場所前の櫓構築風景。4人がそれぞれの面を担当し、次々と上へ組み上げていった
写真:日本相撲協会

 長い人生には、誰にもエポックメーキングな瞬間があり、それはたいてい鮮やかな一シーンとなって人々の脳裏に刻まれている。
 相撲ファンにも必ず、自分の人生に大きな感動と勇気を与えてくれた飛び切りの「一枚」というものがある――。
 本企画では、写真や絵、書に限らず雑誌の表紙、ポスターに至るまで、各界の幅広い層の方々に、自身の心の支え、転機となった相撲にまつわる奇跡的な「一枚」をご披露いただく。
※月刊『相撲』に連載中の「私の“奇跡の一枚”」を一部編集。平成24年3月号掲載の第2回から、毎週火曜日に公開します。 

伝統技術の結晶・太鼓櫓

 甲高い音が出てくる頭上を興味深げに見上げつつ歩を進めるお客さんも多く、ライトアップされた鉄製の櫓は、より光り輝いて、魅力的に見える。

 国技館のこのエレベーター付きの常設の鉄製櫓は、平成7年5月に完成したものだが、その昔は場所ごとに丸太を組み合わせ、荒縄で留めるだけでできていた(しかも1本の釘も針金も使わずに)ことを知る人は、もう少ない。

 蔵前国技館時代には、正面玄関向かって左横の狭いスペースに、場所前になるといつの間にか建っていた印象の相撲櫓。古式に則って、毎本場所2週間前の大安の酉の日(“取り込む”の縁起)に当たり前のように建てられてはいたが、ここに日本の大変な伝統技術が継承されているとは、協会関係者でさえほとんど知らなかった。

 私は27歳で現役を引退し、協会職員として営繕部に採用されてから、新国技館での櫓組を手伝ったのだが、現役だった蔵前時代には裏方さんがこんな難しい仕事をしているとは思いもつかなかった。

毎回感動者の名人芸

 昔ながらの相撲櫓は独特の美しい反りをもったところに特徴がある。柔軟でよくたわみ、しかも丈夫な長い檜を用いたからこそできたものである。

 支柱となる4本の大柱(太いところは電信柱くらい)の長さは15メートル以上もあり、これを地面に深さ約1・5メートルの穴を掘り埋めて立てるところから仕事は始まった。これを基礎として、腰に多数の荒縄をぶら下げた職人(とび)4人一組となって横木を13段(天井のすだれ屋根まで)にわたって井ゲタに組んでいく。

 これらの木は非常に重く、しかも大量で、国技館裏の倉庫からリヤカーで運び出してくるだけでも大変な作業だった。新国技館建設にあたっては組み櫓の伝統を残すかどうか、いろいろ議論もされたようだ。

 開館当初は4本の支柱を立てる穴が現在のスペースにしつらえられていた。

 私たちが目の辺りにした作業は、地味ながらまさに芸術で、その鮮やかさに目を見張るばかりだった。私たちが行ったのは運搬のほかに、柱の先に結び付けたロープを引っ張ってしならせ、反りを持たせる作業。支柱のほか、補強用の筋交いを四面に二段にわたって差し入れるために、監督の指示に従いながら懸命に汗を流した。

 そして出来上がったときにはその出来栄えの素晴らしさに毎回感動したものだ。

 だが、当時60歳だった職人さんたちもすでに高齢、その職人芸はおろか、蔵前の歴史とともに歩み、新国技館も数年にわたって見守り、40年近くも大相撲の心意気を示した櫓の丸太もその役目を終え(電動ノコで処理するにもなかなか刃が立たない頑丈さだった……)銭湯の煙となって、いまはもう見ることはできない。

 職人たちの誇りは、大相撲の開催をより遠くまで太鼓で告げようとしたあの櫓の高さに、また相撲の神様を呼び寄せるアンテナというべき、先端に麻の語弊がついた竹竿(出しっ弊=だしっぺい)に残っているのみである。

語り部=冨安喜章(日本相撲協会営繕部勤務。元十両山錦)

月刊『相撲』平成27年2月号掲載

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