青々とした若葉も、いつかは枯れ、北風に舞い落ちる。確かに、それは土俵に生きる男が避けては通れない栄光と衰退を見せ付けられたような出来事だった。 

※写真上=昭和53年初場所、4大関を破り初の敢闘賞を受賞。このころから糖尿病に蝕まれるようになった(写真中央は殊勲賞・豊山、右は敢闘賞・蔵間)
写真:月刊相撲

 果たしてオレは、この大相撲の世界で大成できるのか――。
 周りのライバルたちとはもちろん、自分の心の中に渦巻く不安との闘い。そんな苦しい手探りの中で、「よし、これだっ。こうやったら、オレはこの世界で食っていけるぞ」と確かな手応えを感じ取り、目の前が大きく開ける思いがする一瞬があるはずです。
 一体力士たちは、どうやって暗闇の中で、そのメシのタネを拾ったのか。これは、光を放った名力士たちの物語です。
※平成4~7年『VANVAN相撲界』連載「開眼!! 相撲における[天才]と[閃き]の研究」を一部編集。毎週金曜日に公開します。

【前回のあらすじ】新入幕翌年の昭和50年夏場所、横綱北の湖に初めて対戦し完敗。それから丸4年、19回も黒星が続いたが、「撒き餌作戦」が功を奏し、通算20回目の対戦で初めて北の湖を寄り切りで破った。すでに年齢は29歳10カ月だった――

糖尿病の悪化で力士人生に終止符

 昭和54(1979)年名古屋場所後、第57代横綱・三重ノ海が誕生した。このとき、31歳と5カ月。初土俵から97場所目のことで、年齢的には史上5位、所要場所では史上最も多い、遅咲き横綱である。

 秋場所初日、玉ノ富士はこの新横綱と対戦した。どんなに難産でも、新横綱には、一種独特の華やかさがある。この場所の玉ノ富士は、北の湖を20回目の対戦で破って初金星を挙げたことが評価され、初の殊勲賞を受賞しているが、この日はこの三重ノ海のまばゆさに圧倒され、何もできずに土俵を割った。

 そして、それから7場所後の55年九州場所2日目、また、玉ノ富士と顔が合った。この間、この年の初場所に一度ぶつかっており、5場所ぶりの対戦である。

 しかし、このときの三重ノ海はまるで別人のようだった。あの体中にギラギラと漲っていた新横綱のときの覇気がすっかり失せてしまっていたのだ。

 ――これなら、なんとかなる。

 玉ノ富士は立ち上がると、三重ノ海が頭を低くして突っ込んでくるところをポンと叩いた。それは今までの三重ノ海なら、とても食わないような叩きだった。ところが、まるで朽木が倒れるように、それこそバッタリという感じであっけなく両手をついてしまったのだ。玉ノ富士は、2個の金星を挙げている。これがその2個目の金星だった。

 三重ノ海が17年間にわたる力士生活に終止符を打ち、引退することを表明したのは、この日の打ち出し後のことである。つまり、玉ノ富士は、三重ノ海の横綱の最初と、最後の、両方の相手を努めたことになる・

 ――なるほど、土俵を去る、というのは、ああいう感じになったとき、決断するもんなんだな。

 夜、宿舎でこの三重ノ海引退の報を知った玉ノ富士は、複雑な思いでこう思った。そして、そのわずか4カ月後に、自分もとうとうその感じに……。

 この三重ノ海を破った九州場所、玉ノ富士は東4枚目で負け越したものの、6勝している。ところが、その2場所の56年春場所、まったく同じ地位で、当たる相手もほとんど同じだったにもかかわらず、たった2勝しかできなかった。この4勝減の原因は、糖尿病の悪化だった。

「好事魔多し、と言うけど、発病したのは、若三杉(のち横綱3代若乃花)、貴ノ花、三重ノ海、旭國という4大関を総なめし、初の敢闘賞をもらった53年初場所前のことですよ。風邪を引いて、いつまでも治らないので、病院でいろいろ検査してもらったら、糖尿病と診断されたんです。あのころは元気いっぱいで、健康管理なんて、爪の先ほども考えていませんでしたからね。その初場所はなんでもなかったんですけど、次の場所、134、5キロあった体重が、一気に129キロに減ったのにはびっくりしました。この病気にさえならなかったら、オレの力士生活も、もうちょっとおもしろかったと思うけど、後の祭りですよね。でも、我が青春に悔いなし。もう一度、生まれ変われたら、また力士になりたいですね」

 片男波親方(元関脇玉ノ富士)は、こう自分の現役時代を総括し、最後にニッコリした。笑える、ということは、満足している、ということだ。

 引退届を提出したのは、この4場所後。幕内41場所のうち関脇が6場所、小結が6場所。殊勲賞1回、敢闘賞2回。

 これが異色の力士生活を送った玉ノ富士の成績のハイライトである。(終。次回からは大錦一徹編です)

PROFILE
玉ノ富士茂◎本名・阿久津→大野茂。昭和24年11月24日、栃木県那須郡那珂川町出身。片男波部屋。185cm127kg。昭和42年夏場所、本名の阿久津で初土俵。翌名古屋場所、玉ノ冨士に改名。45年秋場所、再入門。48年九州場所新十両。49年秋場所新入幕。50年九州場所、玉ノ富士。最高位関脇。幕内通算41場所、289勝326敗。殊勲賞1回、敢闘賞2回。56年九州場所に引退し、年寄湊川を襲名。62年10月、片男波に名跡交換し、部屋を継承。関脇玉春日、玉乃島、前頭玉海力、玉力道らを育てる。平成22年2月に玉春日に部屋を譲り、楯山として部屋付き親方に。31年4月に退職。

『VANVAN相撲界』平成6年5月号掲載

おすすめ記事

相撲 2019年11月号


This article is a sponsored article by
''.