入院したり、病後の療法などを聞いたりしている間に、いつの間にか夏の喧騒も去り、酔いにほてった体にまとわりつく夜気がひんやりして心地良い。

※写真上=「佐渡の怪童」と呼ばれた大錦
写真:月刊相撲

 果たしてオレは、この大相撲の世界で大成できるのか――。
 周りのライバルたちとはもちろん、自分の心の中に渦巻く不安との闘い。そんな苦しい手探りの中で、「よし、これだっ。こうやったら、オレはこの世界で食っていけるぞ」と確かな手応えを感じ取り、目の前が大きく開ける思いがする一瞬があるはずです。
 一体力士たちは、どうやって暗闇の中で、そのメシのタネを拾ったのか。これは、光を放った名力士たちの物語です。
※平成4~7年『VANVAN相撲界』連載「開眼!! 相撲における[天才]と[閃き]の研究」を一部編集。毎週金曜日に公開します。

孤独を打ち消すための救いの神

 ――ああ、やっぱり楽しいや。こんなうまくて、楽しいものを飲んでやってるのに、なんでオレの体は、嫌だ、と悲鳴を上げやがるんだろう。さっぱり分かんねえや。

 久しぶりに褐色の液体が入ったコップを握り締めながら、大錦(初土俵は本名の尾堀、昭和48年名古屋場所、大錦と改名。ここでは大錦で統一)は改めて首をひねった。

 18歳の大錦にとって、この飲み過ぎ、食べ過ぎによる糖尿病の発病というメカニズムは、どう考えても納得のいかない大きな疑問だった。大きな体を作るための食欲を刺激し、ファンや後援者たちとの交流を円滑にする酒は、力士生活の必需品。飲んだり、食ったりすることはいいことだ、と入門して以来、徹底的にたたき込まれてきたのだから。

 もっとも、まだ法律上は飲酒禁止の大錦が、飲むことの魅力にとりつかれたのはそればかりではない。中学3年のときに新潟県の佐渡から上京し、いきなり大男たちの中に放り込まれた心細さや、生来の気の弱さを吹き飛ばす気付けの妙薬だった。

 ひなびた佐渡でのんびりと少年時代を過ごしていた大錦の人生が、見るもの聞くものみんなびっくり、という180度の転換を見せたのは中学3年に進級したばかりの昭和43(1968)年4月。それも、同級生たちと日光、東京を回る三泊四日の修学旅行から帰り着いた夜のことである。

「ただいま」

 まだ旅行の興奮が残る手で玄関の戸を開けた大錦の目に、見知らぬ男の姿が飛び込んできた。当時、出羽海部屋のマネージャーをしていた小山内清三さん(元前頭の2代目出羽ノ花。元関脇の3代目出羽ノ花の叔父)で、佐渡に怪童あり、ということを聞き付け、東京からスカウトに飛んで来ていたのである。

 現役時代の小山内さんは軽量で、一番太っていたときでも93キロしかなかったが、それでも元力士だけに普通の人に比べるとずっと大きい。

「わあ、でっかい人だなあ。オレ、こんな自分より大きな人を見るのは初めてだ」

 このとき、すでに大錦は身長が176センチで、体重が107キロ。小さいときから飛び抜けて大きく、中学に入ると、周りに自分より大きな人間を見たことがなかった大錦は、肝心の小山内さんの勧誘の話よりも、その大きな体のほうが珍しく、上目遣いにまじまじと見詰めていた。

 その小山内さんが紹介する大相撲界は華やかそのものだった。修学旅行で東京の素晴らしさをちょっぴり覗いて来た直後でもある。一丁やってみようか、と好奇心の旺盛な大錦の心が入門に傾くまで、そんなに時間はかからなかった。

「オレは男2人、女1人の3人きょうだいの二男坊。いずれは家を出ていかなくちゃいけない人間だったからね。どうする、と聞かれたとき、スポーツもまんざら嫌いじゃないし、こんなに熱心に誘ってくれてるのに断ったら悪いと思って、オレ、行きます、と軽い気持ちで言っちゃったんですよ。後でえらい目に遭うとは、思いもせずにね」

 と、山科親方は運命を決めた夜のことを振り返る。

 上京したのはそれからおよそ半年後の5月のゴールデンウィーク中のことだった。

 ところが大錦は、部屋に着いて何時間もしないうちに、自分の行動が軽薄だったことに気付いた。転校先の両国中学には、すでに自分より1年半も前に北海道から入門してきた三保ケ関部屋の北の湖らもいたが、それこそ学校に行っても、部屋に帰って来ても、なじみのない怖い顔ばかり。たちまち大錦は強度のホームシックにかかり、故郷のある北の方を見ては泣いて暮らす羽目になってしまったのだ。

 もちろん、相撲を取るどころではない。大錦の星取表を見ると、43年夏、名古屋と2場所も前相撲を取っている。入門直後の夏場所はこのホームシックが激しく、とうとう一日も土俵に上がることができなかったのである。

「とにかく最初の10日間ぐらいは、朝から晩まで泣いていたような気がする。初めのうちは廻しを締めなくていいので、稽古場もちょこっと覗いてはさっと首を引っ込める、という具合で、みんなと同じように稽古できるようになるまで1年ぐらいかかったんじゃないかなあ」

 と山科親方は苦笑いする。

 こんな泣き虫の大錦にとって、やがて面白半分に飲んだ酒は、救いの神だった。飲めば気持ちが陽気になって、佐渡に帰りたい、という思いや、兄弟子たちに対する恐怖心を吹き飛ばしてくれる。大錦が仲間3人で、日本酒を7升半、というバカ飲み記録を作ったのは、入門3年目の幕下に上がる前後のことだった。そして、とうとうこの無茶のツケを支払うときがやってきた。

早すぎた糖尿病との出遭い

「忘れもしません、昭和47年名古屋場所ですよ。夜、ネオンを見ると、ボヤッとにじんで見えるんですよ。あれっ、おかしいなあ、と思って病院で検査してもらったら、血糖値が500ミリグラムもあったんです。正常な人で100ミリグラム以下ですからね。その場で糖尿病と診断されて、場所が終わるのを待って入院ですよ。そこで血糖値を下げるために体重を20キロぐらい落としたり、これからの食事療法を学んだりしたんです。だって、年が年でしたからね。日本酒やビールはダメだけど、ウイスキーは蒸留してあるから大丈夫ということを誰かから聞いて、退院してからも、これはいいんだ、と言いながらウイスキーの水割りをガブガブ飲んでました。アルコールはみんな同じ、と知ったのは、だいぶ後のことです」

 山科親方は、力士の職業病と言われている糖尿病との早すぎる出遭いをこう語る。

 無知ほど怖いものはない。幸いなことに、体そのものは退院後もまだ元気いっぱい。大錦が体の芯までしびれるような開眼と昇進の二重の興奮と喜びに包まれたのは、この発病から4場所目の48年春場所のことだった。

 入門した直後は泣いてばかりいた大錦も、この世界の水に慣れるについて体力がものを言うようになり、出世はすこぶる順調。3年目の45年九州場所には早くも幕下に昇進し、関取目前の西2枚目に上がったこの場所、ついに5番相撲の清ノ華戦で4勝目を挙げて勝ち越し、夢にまで見た十両昇進に王手を掛けたのだ。

 ただ、あと一番勝たないと、100パーセント安心はできない。それは6番相撲で負け、最後の7番相撲の大文字戦(元前頭)のことだった。精神的に追い詰められた大錦は、このプロレス出身のベテラン相手に、立ち合いサッと左を差すことに成功。グズグズしていると逆転されるのは目に見えているだけに、そのまま夢中で前に走った。そして、ふと我に返ったとき、電車道に寄り切って、待望の十両入の切符を掌中にしっかり納めていたのである。

 ――あっ、そうか。こういうふうに左を差して、何も考えず一気に走ればいいんだ。これで師匠が稽古場で口を酸っぱくして言ってることがやっと分かったぞ。これがオレの相撲なんだ。

 この大一番でこれからの飛躍のヒントをつかんだ大錦は、喜びの勝ち名乗りを受けながら、何度も小さくうなずいていた。ただ、土俵外の生活は相変わらず無茶苦茶。体の中でいつ爆発してもおかしくない時限爆弾が刻一刻と時を刻んでいる中でつかんだ、怪童ならではの開眼だった。(続)。

PROFILE
大錦一徹◎本名・尾堀盛夫。昭和28年9月11日、新潟県佐渡市出身。出羽海部屋。186cm150kg。昭和43年夏場所、本名の尾堀で初土俵。48年夏場所新十両。翌名古屋場所、大錦に改名。同年秋場所新入幕。最高位小結。幕内通算53場所、348勝428敗19休。殊勲賞1回、敢闘賞1回、技能賞1回。63年初場所に引退し、年寄山科を襲名。出羽海部屋で後進の指導にあたる。平成30年9月、停年退職。

『VANVAN相撲界』平成6年5月号掲載

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