人間が一生に遭遇する幸運と、不運は、一体どっちが多いのだろうか。

※写真上=十両から幕下に陥落した1年後、7戦全勝優勝し返り咲きを決める
写真:月刊相撲

 果たしてオレは、この大相撲の世界で大成できるのか――。
 周りのライバルたちとはもちろん、自分の心の中に渦巻く不安との闘い。そんな苦しい手探りの中で、「よし、これだっ。こうやったら、オレはこの世界で食っていけるぞ」と確かな手応えを感じ取り、目の前が大きく開ける思いがする一瞬があるはずです。
 一体力士たちは、どうやって暗闇の中で、そのメシのタネを拾ったのか。これは、光を放った名力士たちの物語です。
※平成4~7年『VANVAN相撲界』連載「開眼!! 相撲における[天才]と[閃き]の研究」を一部編集。毎週金曜日に公開します。

【前回のあらすじ】中学卒業後、北海道から上京し佐渡ケ嶽部屋に入門。それまでお山の大将だった長谷川は、序ノ口の土俵で自分より強い者がいることを知り、負ける悔しさを骨の髄まで思い知った。それからの猛稽古が実り、18歳5カ月で十両昇進を決める――

十両2場所目直前に見舞われたアクシデント

 帆にいっぱいの風を受け、水面を滑るように昇進してきた長谷川が、思いがけないアクシデントに見舞われたのは、新十両で見事9勝6敗と勝ち越し、自信を大きく膨らませた十両2場所目の直前だった。入門以来、ずっと胸を借りてきた兄弟子の琴櫻(のち横綱)といつものように稽古中、土俵際でもつれて左足首を骨折したのである。

 このため、春場所は全休、せっかく守った十両の座も滑り落ち、再び返り咲くまで6場所、1年も費やすことになる。大きな道草だった。

 この骨折して病院にかつぎ込まれたとき、長谷川の頭に真っ先に浮かんだのが、

「ああ、これで田舎に仕送りができなくなるなあ」

 ということだった。力士は、十両に上がると一人前として扱われ、協会から毎月、ちゃんと給料が支給される。この中から幾ばくかのおカネを栗沢町(現岩見沢市)に住んでいる両親や、幼い兄弟たちの元に送るのが、関取になったばかりの長谷川のなによりの楽しみであり、生き甲斐だったのだ。

 この試練を乗り越えて再び十両に巻き返し、入幕したのは昭和40(1965)年初場所。その年の九州場所に小結に上がり、以来、この小結、関脇を合わせた三役在位は30場所を数える。長谷川の幕内生活は69場所だから、この守るも、攻めるも難しい三役の座に、なんと半分近くもいたことになる。にもかかわらず、もう一つの壁を破れず、とうとう大関に上がれなかったことも、長谷川の大きな不運と言っていい。

 もっとも、本人はこのことに関してはすこぶる淡々。

「相撲というのはね。それなりに勝っていくと関脇までは上がれるものなんでですよ。でも、その上に行くには、今までの勝ち星の上にもう1つか、2つ、積み上げなくちゃいけない。数字で言うと、8勝、9勝じゃなくて、10勝か、11勝ですね。関脇というのは、負け越すと下に落ちなきゃいけないんですが、当たる顔触れは横綱、大関とほとんど同じでしょう。ここでこのもう1つか、2つ、余計に勝つ、というのはとても難しいことなんですよ。つまり、自分にはその余計に1つか、2つ、勝つ力がなかったんです」

 と冷ややかに分析しているが。

 その代わり、これらの不運を棒引きにするような幸運にも巡り合っている。それも、4回も。

 第一の幸運は、終戦になり、樺太から引き揚げて来る船の中だった。まだほんの小さな子どもだった長谷川は、オシッコがどうしても我慢できなくなり、

「決して危ないところに行くんじゃないよ」

 と心配する母の声を振り切って船の穂先まで駆けて行き、海に向かって思い切り放物線を描き始めた。ところが、北海の荒波を受けて船が大きく揺れた拍子に、思わずバランスを崩し、足元に開いていた錨用の穴に落ち込んだのだ。たまたま体が3分の2近く滑り落ちたところで、目の前にブラ下がっていた綱に夢中でつかまり、事なきを得たが、もしこの綱がなかったら、そのまま海にドボン。おそらくその後の長谷川の人生はなかったに違いない。

 2つ目は、その1年後、故郷の上美流渡を流れる川にかかっている橋の欄干に昇って遊んでいるうちに足を滑らし、今度は6、7メートル下の川面まで落ちてしまったのだ。その転落した目と鼻の先になんと大きな岩が。もし落ちたところがもう数センチ違っていたら、大ケガを負っているところだった。

 3つ目は、38年11月の九州場所でちゃんこ番の三段目と、序二段の力士2人が死んだ。“佐渡ケ嶽フグ中毒死事件”のときである。

 ちょうど左足首を骨折し、十両から幕下に転落していたときのことで、長谷川も死んだ2人とこのフグを食べようとしていた。ところが、その食べる寸前で、ある知り合いから電話が入り、話が終わってちゃんこ場に戻ったところ、もう2人が中毒症状を起こしていた。まさに1本の電話が生死を分けたのである。

 そして、4つ目は、41年2月の寒い夜、羽田沖で一瞬のうちに大勢の乗客が命を失った全日空機墜落事故のときである。その犠牲者の多くが札幌の雪まつり客、ということで悲惨さがいっそう浮き彫りになった事故だったが、長谷川もちょうどこの雪まつりを見物に行っており、この事故機に乗ることになっていた。ところが、札幌で久しぶりに兄弟たちと会って食事をしたり、買い物に手間取ったりしたために乗り遅れ、不本意ながらもう一晩、泊まることになったのだ。この乗り遅れが命を救った。

「今でも、この4つとも思い出すとゾッとしますよ。特に、3つ目のフグ事件は、同じ釜の飯を食っていた仲間が死んだだけに、なんとも言えない気持ちになります。触れたくない事件ですね。2つ目の欄干から落ちた川には、数年前、向こうに行ったついでに見に行ってきました。そしたら、小さくて木もチョロチョロとしか流れていないんですよ。子どものころと、大人になってからでは、物を測る物差しが全然違うんですね。いや、びっくりしました。4つ目の飛行機事故のときは、さすがに青くなりましたよ。翌日は岩風さん(元関脇)の引退相撲があったので、朝一番の便で帰ったんですけど、部屋の玄関にたどり着いた途端、親方に、バカヤローッ、どうして連絡しなかったんだ、といきなりどやしつけられました。みんな、てっきりあの飛行機に乗っているものと思って心配していたんですって」

 と秀ノ山親方は際どいところで生き残った自分の運の強さに改めて感心する。

 人間は、わずかなことでどうなるか分からない。もろい基盤の上で生きている。まして、その人間のやる土俵上の戦いなんて、もっともろく、他愛がない。だからこそ、逆に大事に。長谷川は、この4つの幸運のおかげで、どんな名僧の説教にも勝る貴重な人生訓を得たのである。(続)

画像: 長谷川戡洋

長谷川戡洋

PROFILE
長谷川戡洋 ◎本名・長谷川勝敏。昭和19年7月20日、北海道岩見沢市出身。佐渡ケ嶽部屋。184cm127kg。昭和35年春場所、本名の長谷川で初土俵。38年初場所新十両。40年初場所新入幕。最高位関脇。幕内通算69場所、523勝502敗。優勝1回、殊勲賞3回、敢闘賞3回、技能賞2回。51年夏場所に引退し、年寄秀ノ山を襲名。佐渡ケ嶽部屋で後進の指導にあたる。平成21年7月、停年退職。

『VANVAN相撲界』平成6年9月号掲載

おすすめ記事

相撲 2020年1月号


This article is a sponsored article by
''.