――おもしれえ。とうとうご対面か。怪童だとか、天才だとか、みんな言ってるけど、どのくらい強えのか、一丁、試してやろうじゃねえか。

※写真上=腰の重さを生かし、右四つからの寄りを得意とした魁輝
写真:月刊相撲

 果たしてオレは、この大相撲の世界で大成できるのか――。
 周りのライバルたちとはもちろん、自分の心の中に渦巻く不安との闘い。そんな苦しい手探りの中で、「よし、これだっ。こうやったら、オレはこの世界で食っていけるぞ」と確かな手応えを感じ取り、目の前が大きく開ける思いがする一瞬があるはずです。
 一体力士たちは、どうやって暗闇の中で、そのメシのタネを拾ったのか。これは、光を放った名力士たちの物語です。
※平成4~7年『VANVAN相撲界』連載「開眼!! 相撲における[天才]と[閃き]の研究」を一部編集。毎週金曜日に公開します。

序ノ口デビュー場所で味わった試練

 11月の半ばとはいっても、つい2年前までいた生まれ故郷の青森と違い、九州の夜気はまだ人の心を浮き立たせるような甘さを漂わせている。兄弟子の目を盗んでそっと宿舎の外に出た魁輝(入門時の四股名は本名の西野。西錦を経て、昭和50年名古屋場所、魁輝に改名。ここでは便宜上、魁輝に統一)は、東京ではめったに見られない澄んだ秋の夜空を見上げながら、明日の対戦相手の年下らしからぬ不敵な面構えを思い浮かべた。

 魁輝が力士になるために青森県上北郡天間林村(現七戸町天間舘)から上京してきたのは、昭和40年の4月1日のことである。このとき、魁輝はまだ小学校を卒業したばかりの13歳。6年のときの上北郡の相撲大会で優勝したことがきっかけで友綱部屋への入門話が舞い込み、トントン拍子で進展したのだ。そのころはまだ、今と違って中学を卒業する前でも入門が許されており、どこの部屋にも、この魁輝のように学校に通いながら土俵に上がっている中学生力士が何人か、いた。

 魁輝は5人兄弟の三男。長男以外は外に出る、というのが村の不文律のようなもので、小学校を卒業したばかり、とはいっても、親元を離れて東京に行く、ということには、そんなに抵抗感はなかった。周りの遊び仲間よりも、人生の巣立ちのときがホンのちょっと早いだけだったのだから。

 こんなふうに、先天的になんでも明るく割り切って考えられる性格に魁輝は随分助けられた。いくら乳離れしていても、田舎出の、右も左も分からないうぶな少年が、海千山千の兄弟子たちに伍してスクスクと生きていけるほど、この世界は生やさしい世界ではないからだ。

 魁輝も、友綱部屋の門をくぐるや否や、この厳しい世界の風にさらされた。中学に入ったばかりで、下着の洗濯はもちろん、新しく転校した「両国中学」に持って行く弁当も、全部自分で作らなくてはいけない。

 初土俵は、身長が足りず、上京から半年後の秋場所。二番出世で、次の九州場所、番付表の西序ノ口26枚目に初めて四股名が載った。

 ところが、4番取り、2勝2敗の五分にこぎつけたところで、急性虫垂炎になってしまい、急きょ、休場して手術する羽目に。千秋楽になっても、まだ魁輝はベッドの上で横になったままだった。

「場所が終わって、兄弟子や、教習所の仲間が次々に東京に帰って行くのに、こっちはたった一人、誰も知った人がいない福岡の病院に取り残されたまま。しばらくして退院の許可が出たので、夜行列車に揺られ、東京の部屋に帰ったんですけど、あのときの心細さは忘れられないなあ」

 と22年後の昭和62(1987)年春場所限りで引退、高島を経て「友綱」を襲名した元魁輝の友綱親方はこのつらい新弟子時代をしみじみ振り返る。

 しかし、こんな力士生活も、要領さえ飲み込んでしまえば、それなりに楽しいもの。入門したとき、部屋に2人いた中学生力士がいつまでたっても相撲界の水に馴染めず、相次いで廃業していくのを横目に、魁輝はスンナリと両国の空気に溶け込み、3年後に両国中を卒業するときには番付も三段目まで上がっていた。

小さな自信が木っ端みじんに粉砕

 この両国中学のとき、もういっぱしの力士気取りの魁輝ら、30人近くいた同期の力士メイトの感心を独り占めしてた1年後輩がいた。中学1年の三学期に北海道から三保ケ関部屋に入門し、1年後の夏場所にはもう魁輝と同じ三段目に昇進してきた元横綱北の湖である。そのびっくりするようなスピード出世ぶりとともに、なにかにつけてとても1つ下とは思えないようなふてぶてしさが魁輝ら兄弟子の神経に障ったのだ。

 ――あの野郎、オレたちを一体何だって思っていやがるんだ。ようし、いつか土俵で顔が合ったら、目に物言わせてやる。

 もう中学在学中から、魁輝の胸の中でこの生意気な後輩をコテンパンにやっつけるシナリオが出来上がっていた。そして、両国中学を卒業し、力士生活一本になった年の九州場所7日目、ついにこの不敵な北の湖と顔が合ったのだ。期するものが大きかっただけに、魁輝が勇み立ったのは当然だった。

 しかし、その結果は、あまりにも無残だった。魁輝は当時から腰の重さが売り物で、少々の攻めには動じない自信があった。ところが、その自慢の腰が北の湖のたった3発の突っ張りであっけなく粉砕されてしまったのだ。

「立ち上がる前から、向こうが突っ張ってくるのは分かっていましたからね。一体どの程度の突っ張りなのか、突っ張ってみろ、と甘く考えていたんですね。そこに一発、ドンと来たんですよ。おや、なかなかいい突っ張りをしてるじゃないか、と思ったら、ドン、ドンで、土俵の外まで吹っ飛ばされてしまった。完敗もいいところですよ。いやあ、脳天を思い切りぶん殴られたような思い、というのは、あのことを言うんでしょうねえ」

 と、友綱親方はこの26年前に小さな自信家が木っ端みじんに粉砕された日のことをまるで昨日のことのように生々しく語る。

 この魁輝のショックの大きさは、この惨敗劇のあと、1番も勝てずとうとうこの場所、2勝5敗と大敗したところにもクッキリと現れている。

 この世にはとんでもないヤツがいる。このとき、魁輝は生まれて初めて天才の存在を実感し、体中が総毛立つのを禁じ得なかった。以来、魁輝の脳裏にますます北の湖の影がくっきりと。そして、これから10年後、魁輝は、大横綱に成長したこの北の湖を向こうに回してもう一度、人間臭たっぷりなドラマを演じることになる。(続)

PROFILE
魁輝薫秀◎本名・西野政章。昭和27年6月24日、青森県上北郡七戸町出身。友綱部屋。182cm148kg。昭和40年秋場所、本名の西野で初土俵。48年春場所、西錦に改名。同年秋場所新十両。50年名古屋場所、魁輝に改名。同年九州場所新入幕。最高位関脇。幕内通算66場所、446勝522敗22休。敢闘賞1回。62年春場所に引退し、年寄高島を襲名。平成元年、友綱部屋を継承し、大関魁皇らを育てた。29年6月、大島に名跡変更、部屋を元旭天鵬に譲った。

『VANVAN相撲界』平成6年8月号掲載

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