魁輝が入門したとき、友綱部屋には全部で14人の力士がいた。けっして大人数ではないが、そんなに小部屋でもない。しかし、師匠(元小結巴潟)が晩年だったこともあって、そこから1人抜け、2人抜けして、魁輝が幕下時代の昭和47(1972)年にはとうとう4人になり、十両時代の50人初場所には3人になっている。

※写真上=新入幕の昭和50年九州場所2日目、福の花を引き落としで破り、幕内初白星を挙げる
写真:月刊相撲

 果たしてオレは、この大相撲の世界で大成できるのか――。
 周りのライバルたちとはもちろん、自分の心の中に渦巻く不安との闘い。そんな苦しい手探りの中で、「よし、これだっ。こうやったら、オレはこの世界で食っていけるぞ」と確かな手応えを感じ取り、目の前が大きく開ける思いがする一瞬があるはずです。
 一体力士たちは、どうやって暗闇の中で、そのメシのタネを拾ったのか。これは、光を放った名力士たちの物語です。
※平成4~7年『VANVAN相撲界』連載「開眼!! 相撲における[天才]と[閃き]の研究」を一部編集。毎週金曜日に公開します。

【前回のあらすじ】小学校を卒業したばかりの13歳で、力士になるために青森県上北郡天間林村(現七戸市天間舘)から上京。両国中学を失業するときには三段目に昇進した。その位置で同じ中学の1年後輩、“怪童”北の湖と対決。コテンパンにやっつけるシナリオができあがっていたが、無残にも粉砕されてしまう――

小部屋の悲哀と歓喜

 これは、当時、清水川の間垣部屋の2人に次ぐ少人数である。部屋が小さいと、アットホームな雰囲気で、みんなのまとまりがいいが、その反面、兄弟子や、競争相手が少ないので稽古していても刺激がない。

「下のころ、小部屋っていうのはイヤだなあ、と一番思ったのは、巡業に出られないってことですよ。何しろ付いて行く関取がいないんだから。ほかの部屋の連中が、あそこの巡業ではあんなことがあった、こんなことがあった、と楽しそうに話しているのに、一人だけその話の輪に加われないっていうのは、寂しいもんですよ。あのころは今と違ってどっかで合宿を張る、ということもないしねえ。だから、オヤジ(師匠)もいろいろ気を遣って、一門の陸奥嵐関や、巡業部長をしていた宮城野さん(元横綱吉葉山)、審判委員の中村親方(元関脇明武谷)らに付けて、できる限り巡業に出してくれました。初めて巡業に出たとき、現役時代の大鵬さんの稽古を目の当たりに見たんですよ。わあ、これが横綱の稽古なのか、とあのときはものすごく感激しましたねえ」

 と友綱親方(元関脇魁輝)は小部屋育ちの“悲哀”をもらす。

 ――今に見ておれ。そのうちオレも、大部屋の連中に負けないようなメジャーになってやる。

 こんな思いが魁輝の胸にふつふつとたぐってきたのは、水が高いところから低いほうに流れ落ちるよりも自然なことだった。では、どうしたらそのメジャーになれるのか。孤立無援の魁輝にとって、その目安は三賞、三役、金星のどれか、一つをものにすることだった。天才・北の湖に一蹴されてから、横綱、大関は論外、と自分の能力にいち早く一線を引いてしまっていたのである。

 しかし、幕下生活が23場所、さらに入幕するまで十両13場所という数字が示すように、その出世スピードは上に上がるにつれてだんだんスローに。魁輝は幕下のときに一度、十両のときに二度、四股名を改名している。あまりのユックリズムにしびれを切らした先代の師匠(元十両一錦)が、

「こんなに目が出ないのは、四股名が悪いのでは」

 と自分の指導法に疑問を懐き、いずれも本人には無断で改名届を出してしまったのだ。

 しかし、こんな魁輝にも、新入幕から数えて22場所目の54年夏場所、ついに待ちに待った明るい日差しがさんさんと降り注ぐ日がやってきた。

 この前の場所、東の5枚目で二ケタの10勝を挙げ、待望の東小結に昇進したのである。しかも、この場所、新三役プレッシャーをものとはせず、初日旭國、2日目貴ノ花と大関を連破。北の湖をはじめ上位陣が充実し、守るのが難しい地位にもかかわらず、この序盤の“貯金”を生かして14日目を終わって7勝7敗という五分にこぎつけた。

 残るは千秋楽の一番だけ。これに負ければすべてはパーだが、勝てば小結の座の維持はもちろんのこと、ひょっとすると、もう一つのターゲットの三賞ももらえるかもしれない。この日の朝の新聞で、魁輝は自分が敢闘賞候補に挙がっていることを知っていた。

 こんなビッグチャンスは、そう巡ってくるものではない。魁輝は、場所入りする前から自分の顔色が緊張でいつもと違っているのに気付いていた。ただ救いは、この大一番の相手がよく稽古し、手の内を十分心得ていてる東4枚目の玉輝山であることだった。向こう十分の右四つになると勝ち目はほとんどないが、逆にこっちの得意の左四つになると、何とかなる。

 ――頼む、左が入ってくれ。

 魁輝は、祈るような思いで立ち上がった。そして、一呼吸後、凍りついたようになっていた体中の血が生き生きと流れ出したのが自分でも手に取るように分かった。魁輝の願いが天に通じ、相手の上手に魁輝の右手がしっかりとかかっていたのだ。あとはひたすら前に出ればいい。

 魁輝は、夢中で寄って出たところまではかすかに覚えている。しかし、そのあとの勝ち名乗りを受けたことや、土俵上で敢闘賞の盾を手にしたことはほとんど夢うつつ。

 やっと魁輝の記憶回線が元のように機能し始めたのは、江東区内の部屋に戻り、玄関にあふれているおびただしい数の靴を見たときだった。小部屋から誕生したヒーローを祝福しようと、今まで見たこともないような大勢のファンや、後援者たちがドッと押し掛けて、肝心な魁輝ですら入る余地が見付からないのだ。

 ――大部屋がなんだってんだ。みろ、こんなにオレの活躍を喜んでくれる人たちがいる。オレがこんな小さな部屋で頑張ってきたのは、けっしてムダじゃなかった。

 魁輝は、いつしか自分のほおが熱いもので濡れていくのを感じていた。それは、いつも小部屋の力士を見下している大部屋の力士たちにはけっして流せない種類の涙だった。この日、魁輝は、自信を持って生きる、というもう一つの無形の賞を手にした。(続)

PROFILE
魁輝薫秀◎本名・西野政章。昭和27年6月24日、青森県上北郡七戸町出身。友綱部屋。182cm148kg。昭和40年秋場所、本名の西野で初土俵。48年春場所、西錦に改名。同年秋場所新十両。50年名古屋場所、魁輝に改名。同年九州場所新入幕。最高位関脇。幕内通算66場所、446勝522敗22休。敢闘賞1回。62年春場所に引退し、年寄高島を襲名。平成元年、友綱部屋を継承し、大関魁皇らを育てた。29年6月、大島に名跡変更、部屋を元旭天鵬に譲った。

『VANVAN相撲界』平成6年8月号掲載

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