あとは仕掛けた網をギュッと絞り込むだけだ。魁輝が手ぐすね引いて待っていた5回目の対戦は2日目にやってきた。もうイヤというほど“まき餌”をしてあるので、立ち合い、北の湖は安心し切って突っ込んできた。そこを、魁輝はかねて頭の中で描いていたとおりに、ヒラリと右に変わり、素早く右で上手をつかむと出し投げを打ったのである。この意表をつく変化に、北の湖は大きくたたらを踏み、土俵際で何とか回り込もうとしたが、魁輝に後ろに回られては万事休す。とうとうそのまま送り出されてしまった。鮮やかな頭脳プレーの勝利である。

※写真上=昭和53年2月、師匠の長女敬子さんと華燭の典を挙げる
写真:月刊相撲

 果たしてオレは、この大相撲の世界で大成できるのか――。
 周りのライバルたちとはもちろん、自分の心の中に渦巻く不安との闘い。そんな苦しい手探りの中で、「よし、これだっ。こうやったら、オレはこの世界で食っていけるぞ」と確かな手応えを感じ取り、目の前が大きく開ける思いがする一瞬があるはずです。
 一体力士たちは、どうやって暗闇の中で、そのメシのタネを拾ったのか。これは、光を放った名力士たちの物語です。
※平成4~7年『VANVAN相撲界』連載「開眼!! 相撲における[天才]と[閃き]の研究」を一部編集。毎週金曜日に公開します。

【前回のあらすじ】両国中学の1年後輩である横綱北の湖にどうしても勝てず、奇襲作戦を思いつくが、黒姫山のアドバイスを守り、真っ向から北の湖に当たって完敗。三保ケ関部屋への出稽古でも、真っすぐ当たって玉砕されるが、それは次の対戦への布石だった――

頭脳作戦が的中

「その晩、武隈さん(元関脇黒姫山)と白玉(元幕内琴ケ嶽)に、『オイ、お祝いだ、おごれ』と言われて、せっかく取った懸賞分、ペロリと飲まれてしまいました。でも、あのときの気分は何ともいえなかったなあ」

 と友綱親方(元関脇魁輝)は今でも会心の笑みを浮かべるが、これには、さらに2つの“後日談”がついている。

 一つは、前年の2月に結婚した敬子夫人がまるでこの夫の横綱初白星を待っていたように、翌日、玉のような男の子を出産したのだ。この敬子夫人は先代・友綱(元十両一錦)の長女、つまり師匠の娘である。

 もう一つは、この奇襲で北の湖がすっかり魁輝に対して疑心暗鬼に陥り、2場所後の6回目の対戦では逆に出足が止まったところを引き落とされ、2連敗してしまったのだ。初勝利のときは残念ながら関脇だったので金星にならなかったが、このときは東の3枚目だったので堂々たる金星である。

 ――オレのような凡才でも、努力と工夫によっては、あんな天才にも勝てるんだ。

 魁輝は、この2番の北の湖戦の前と後では、自分に対する自信がガラッと違うのを感じた。

 この魁輝が体力の限界を感じて引退したのはこの8年後。そして平成元(1989)年5月、停年になった先代の跡を継いで「友綱」を襲名した。

「入門するときは鏡山さん(元横綱柏戸)のファンだったんだけど、入門して陣幕さん(当時、元横綱北の富士)を見たら、たちまちこっちのほうが好きになっちゃってねえ。あんな突っ張ってよし、四つになってよしのきっぷのいい力士を育てたいんだ、オレとは正反対の」

 これが友綱親方の夢である。(終。次回からは大関・清國勝雄編です)

PROFILE
魁輝薫秀◎本名・西野政章。昭和27年6月24日、青森県上北郡七戸町出身。友綱部屋。182cm148kg。昭和40年秋場所、本名の西野で初土俵。48年春場所、西錦に改名。同年秋場所新十両。50年名古屋場所、魁輝に改名。同年九州場所新入幕。最高位関脇。幕内通算66場所、446勝522敗22休。敢闘賞1回。62年春場所に引退し、年寄高島を襲名。平成元年、友綱部屋を継承し、大関魁皇らを育てた。29年6月、大島に名跡変更、部屋を元旭天鵬に譲った。

『VANVAN相撲界』平成6年8月号掲載

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