私は平成29(2017)年9月、満65歳の停年という一つの区切りを迎えた。昭和45(1970)年の入門から足掛け47年に及ぶ長い相撲人生である。これまでを振り返って、何が幸せだったかというと、あの柏戸の弟子だったということに尽きると思う。

写真上=昭和50年夏場所後、部屋創設(45年12月)以来、横綱柏戸の鏡山部屋から初めての関取(新十両)がコンビ(小沼・安達)で誕生! ということで小岩の部屋にマスコミが殺到、師匠もご機嫌で2人が酒を注ぐポーズをとった。左が私。これからようやく11年後、私も師匠からあの『美酒』をいただくことになる――。
写真:月刊相撲

 長い人生には、誰にもエポックメーキングな瞬間があり、それはたいてい鮮やかな一シーンとなって人々の脳裏に刻まれている。
 相撲ファンにも必ず、自分の人生に大きな感動と勇気を与えてくれた飛び切りの「一枚」というものがある――。
 本企画では、写真や絵、書に限らず雑誌の表紙、ポスターに至るまで、各界の幅広い層の方々に、自身の心の支え、転機となった相撲にまつわる奇跡的な「一枚」をご披露いただく。
※月刊『相撲』に連載中の「私の“奇跡の一枚”」を一部編集。平成24年3月号掲載の第2回から、毎週火曜日に公開します。 

柏戸の弟子という誇り

 私は山形市の出身で、横綱柏戸は故郷の大英雄だった。その憧れの柏戸が引退し鏡山部屋創設の準備をしていると聞いた昭和45年、誘いを受けた私は、一も二もなく入門を志願した。日大山形高校から卒業を待たず柏戸の内弟子として、当時の伊勢ノ海部屋に飛び込み初土俵を踏んだ。

 稽古場での親方の教えは{前に出ろ」の一点張り。「とにかく前に出ろ!」。出なければ、それこそ竹刀で叩かれた。押し、前進は相撲の基本中の基本だが、いざ身に付けるとなると、相手も必死になって前に出てくるのだから、容易なことではない。それでも人間よくしたもので、「前へ」と言われ続けながら稽古を積んでいくと、それが少しずつできるようになってくる。

 現役時代の親方はそれを強豪相手にいとも簡単にやってのけた。力強い速攻で常に相手を圧倒、豪快に土俵外に運んだ柏戸相撲は、人々を魅了してやまなかった。

 また親方は、純情な人柄もあって、ファン以上に協会の大物と言われる人々からも愛されていた。柏戸の弟子ということで、私も出稽古先などで、普段ではめったに口もきけない方々によく言葉を掛けていただいた。そんなみなさんが共通して言う言葉に「天才」という言葉があった。

 春日野理事長(元横綱栃錦)には、「お前のところの師匠は天才だからな、決してあの真似をしようなんて考えるんじゃないぞ」。

 ともに切磋琢磨して華やかな柏鵬時代を作り上げた世紀のライバル・大鵬親方には、「天才の柏戸さんに対して、ワシは努力型。柏戸さんという目標があったからこそ、今のワシがあるんだよ」と。

 名実ともに誰もが認める相撲の天才であった師匠から見れば、我々しょっぱい相撲取りの相撲は、まどろこっしくて見ていられなかったに違いない。だから、私は年中怒られっぱなしだった。

生涯で唯一褒められた!

 そんな中で、自分の相撲をほめられた思い出がただ1回だけある(あとにも先にも、本当にこの1回だけ)。

 それは私の現役最後のハイライトとでもいうべき、昭和56年9月場所11日目、6回目の挑戦で初めて横綱北の湖関を叩き込みで破った(生涯唯一の金星!)晩のことだった。

「おい、今日はよくやった」と短く言うなり、部屋の洋酒棚に大事にとってあったソ連土産(昭和40年9月のソビエト公演時)のウオッカとブランデーを引っ張り出してきて、「これを飲め!」と私にくれた(10数年も経っているのでウオッカは少し蒸発していて、ビンの首にかなりのスキがあった)。  

 なにせ生まれて初めて師匠から褒められたのである。私は舞い上がるような気持ちだった。ただその晩は後援者との約束があったので、私が〝ご褒美〟に手を付けたのは翌日。師匠のお褒めの言葉を思い起こしながら個室でひとり、コップでぐいぐいやって(これがうまいの、なんの!)気が付けば、2本ともカラにしてしまっていた。あれ以上うまい酒は、後にも先にも飲んだことはない。

語り部=武隈敏正(元前頭1・蔵玉錦)

月刊『相撲』平成29年10月号掲載

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