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2019-03-08

『自分流 駅伝・帝京大の育成力』刊行記念対談 来年の箱根駅伝がますます楽しみになってくる、 〈中野マジック〉のタネ明かし

学生長距離界の新しいシーズンが始まった。春から夏を経て大きく成長していく彼らの姿を見ることが、大学スポーツの醍醐味のひとつだ。
大学4年間の選手たちの「成長率」の高さで知られる帝京大駅伝競走部の中野孝行監督が、その育成法を紹介する『自分流 駅伝・帝京大の育成力』を刊行。記念に開催された作家・黒木亮さんとの対談をお届けする。

写真上=帝京大グラウンドで練習を見守る中野監督。いよいよ学生長距離の新しいシーズンが始まる

『冬の喝采』の感想を送ったのがきっかけ

まずは、お二人の関係を教えてください。

黒木 中野さんとは不思議な縁があって、私が持っていた20㎞の道路北海道記録を破ったのが中野さんでした。聞くと、「北海道記録の中では、黒木さんのが一番破りやすそうだった」とのことで、そう言われればそうかなと(笑)。

中野 黒木さんは私にとってあこがれでしたが、高校1年生まで強かったのに、その後は大学2年生まで目立った実績がないという、不思議な選手でした。なぜだろうと思っていたら、著書の『冬の喝采』が出版されて、そのなかに詳しく書かれていました。購入した本に購読者カードが挟まっていたので、まさか本人の元にはいかないだろうと思って、本の感想と一緒に「あなたの北海道記録を破ったのは私です」と書いて送りました。すると、10年前の冬に突然黒木さんから電話がかかってきたんです。「明日イギリスに帰るので、今日会えませんか」と言われ、急きょお会いすることになりました。実際に会っていろいろな話をするうちに、それまで会ったことも、話したこともなかったのに、なぜか時代の隙間が埋まっていくようでした。

八重洲ブックセンターで開催された中野監督と作家・黒木亮氏との対談には、駅伝ファンだけでなく陸上の指導者や学校の先生、ビジネスマンなど80人余りが集まった

復路は伸び盛りの選手を起用

それでは、今年の第95回箱根駅伝を振り返っていきましょう。

黒木 私はロンドンに住んでいるため、テレビ中継を観られず、毎年、文化放送のインターネット・ラジオ中継を聴いています。帝京大は2区で14位に下がったのに、じわじわと順位を上げて、復路で一気に5位までいきましたよね。これが中野マジックなのか、と感心しました。特に、10区の星岳君が区間賞を取ったのはびっくりしました。彼がどうしてここまで伸びたのか、ぜひ中野さんに聞いてみたいです。

中野 高校時代はインターハイにも出場していませんが、自分でしっかりと考えられる賢い選手です。背は小さいけれどガッツもありますね。星岳(ホシ・ガク)という名前なので、箱根駅伝の山上りをやらせたくて、「山岳の星、その名も星岳」というキャッチフレーズまで考えているのですが、なかなか5区をやってくれません。

帝京大の復路は3位で、区間順位は全員が一ケタ、このうち3人が5位以内でした。戦う前から自信があったのですか。

中野 実は往路も自信があったのですが、9位でした。復路は3年生以下の伸び盛りの選手たちを起用しました。6区は10000mの帝京大最高記録を持つ島貫温太でしたし、9区の小森稜太、10区の星には特に自信がありました。私のなかでは、法政大学と国学院大学には負けたくないと思っていたんです。法政の坪田智夫監督、国学院の前田康弘監督は私よりも一回り以上も年下ですが、負けたら1年間言われ続けそうなので……。国学院とは往路を終わって4分15秒も差がありましたが、往路3位の国学院、5位の法政を目標にして走れば、自然と順位が上がるだろうと考えていました。結果的に、復路でこの2校を抜くことができて良かったです。

2019年(第95回)の箱根駅伝10区で区間賞を獲得した星岳選手は3年生に。力のある4年生が卒業したものの来年度の帝京大の成長ぶりも楽しみだ

区間配置は選手の1年間の成長を考慮して

中野監督は毎回、12月29日の区間エントリーを終えてから目標を決めるそうですが、今大会はどのような目標を立てたのですか。

中野 選手たちが掲げた目標は3位でした。ハーフマラソンの上位10人の平均タイムが3位だったからです。ただ、三強といわれた青山学院大学、東海大学、東洋大学、予選会トップ通過の駒澤大学の4校はやはり強いと思っていました。だから、5位という成績は妥当でしょう。選手たちは本番で力を発揮してくれました。

当日の選手変更は最大4人まで認められていますが、帝京大は10区間中たった1人、4区に入った横井裕仁選手だけでした。黒木さんは早稲田大学時代に箱根駅伝に2度出場されていますが(55回・56回大会)、学生時代はいかがでしたか。

黒木 当時の監督だった中村清さんは、前年に良い走りをした選手を同じ区間に使う傾向があったので、区間配置はだいたい固まっていました。4区、7区あたりを交代したくらいでしょうか。最近は選手変更も頭脳戦のようなところがあり、すごいと思います。相手の出方を細かく予想したり、隠し玉を入れたり、昔はそこまでしていませんでしたね。

中野 黒木さんがおっしゃるとおり、前年に良かった区間を走らせるのがセオリーだと思います。ただ、私はいろいろな状況を考えて毎回悩みます。選手の1年間の成長を考慮すれば、前年と同じ区間に起用するとは限らない。例えば今大会では、当初は星を4区に、竹下凱を復路に起用するつもりでした。ギリギリまで迷って、1区を竹下、10区を星にしようと決めたのは12月29日の朝です。区間エントリーは12月29日、つまり「二重の苦しみの日」ですが、それを終えると、一旦苦しみから開放されてすっきりします。毎年12月に入るとなかなか眠ることができず、朝2時半には目が覚めるんですよ。それが、区間エントリーの翌朝だけは5時までぐっすり眠ることができました。

中村清監督は、どのように区間配置を発表していたのですか。

黒木 そんなに大した発表はしませんでした。マネジャーの村尾慎悦君に区間を教えられるくらいで。当時の早稲田は長距離部員が4学年合わせても25人程度で、そのなかに800mや1500mの選手もいました。まともに箱根駅伝の距離を走れるのは15〜6人です。ほとんどの選手はインターハイ経験者で、半分位は決勝に行っていましたが。ケガをした選手がいれば13~4人しかいないので、誰がどこを走るかだいたい分かりました。今はチーム内の競争も激しいですよね。

中野 今年度、全日本の区間配置はキャプテンやマネジャーなど、学生にも意見を聞きましたが、箱根は私が決めました。ただ、高校時代からずっと選手たちを見てきて、苦労も知っているので、どうしても情が入ってしまうことがあります。そうすると、冷静な判断ができなくなるので、そのときだけは嫌な監督になるんですよ。今大会のように誰が走っても戦えるような場合はなおさら、重箱の隅をつつくように選手たちのマイナス面を探して、誰を外すか決めました。自分でも嫌になりますが、駅伝はチーム戦なので、誰が走ればチームにとってベストなのかを考えないと成り立たない。後になって、本当にこれで良かったのかと思うこともありますが、なるべく考えないようにしています。

“天才”に圧倒され、どん底からのスタートだった

黒木 時代が変われば、指導者も変わりますよね。帝京大では唾液中のアミラーゼを採取してストレス度を測るなど、医科学的なサポートも充実しているようですが、私たちの頃は科学性ゼロでしたよ。中村監督は特に変わっていて、道元や親鸞を手本にしていました。

 唯一、順天堂大学の澤木啓祐さん(現・名誉総監督)が医科学的アプローチを導入していたので、他大学もそれに倣ったのでしょう。日本の学生長距離が強くなったのは、澤木さんの功績が大きいと思います。

 中村監督は「体重を減らせ」くらいしか言わなかったですね。「こんなものを食ったらいかんぞ」と言いながら、自分は好物の焼き芋をむしゃむしゃ食べていました(笑)。あと、村社講平さんが1936年のベルリンオリンピックで決勝を走る前に、コップの水を半分くらい捨てていたという話を聞かされて、私たちもあまり水を飲まないようにしていました。体重が1㎏多いと、20㎞を走ったときにタイムが約1分違うので、水を飲まずに体重を減らしていたのです。私は3年生のときの関東インカレで、レース前に脱水症状を起こして走れなくなったことがあります。あんなやり方でよくやっていたなと思います。今の選手は練習量が多いですし、常にケガとの闘いですよね。

中野 ケガも強くなるためには必要で、ケガを経験せずにトップに上がることはできないと思います。練習というのは、山の剣ヶ峰を歩いているようなものです。上からみると景色が良いけれども、一歩間違うと落ちてしまう。剣ヶ峰のギリギリのところをいかないといけませんね。

黒木さんは3年生のときの55回大会(1979年)で、瀬古利彦さん(横浜DeNAランニングクラブ総監督、日本陸連マラソン強化戦略プロジェクトリーダー)からタスキを受けたのですよね。

1979年(第55回)箱根駅伝。早稲田大2区の瀬古利彦さんが区間新をマークする快走でトップに立ち戸塚中継所へ。3区黒木さんへタスキを繋いだ

黒木 瀬古さんが2区で、私が3区でした。瀬古さんからトップでタスキをもらって、そのままトップで4区に渡しました。4年生になると、後に1984年のロサンゼルスオリンピックの10000mで7位に入賞した金井豊君という大物が入ってきたので、彼が3区で、私は逆コースである復路の8区を走りました。

 瀬古さんの体は動物的でしたね。マッサージをすると分かるのですが、太ももが太くて、筋肉が柔らかい。もう、人間と動物の中間みたいでした。普通の人が後ろから走ってきたときの足音は「パタパタ」という音なのに、瀬古さんが走ってくると「バシッ、バシッ」とゴム底でアスファルトを叩きつけるような音がするんですよ。その音を聞いたとき、世界のトップレベルとはこういうものなのかと、がく然としましたね。

 私は高校2年生から3年間、ケガで走れなかったのですが、上京後に円谷幸吉選手の手術もした第三北品川病院を紹介してもらい、やっと治ったんです。それで大学2年生から競走部に入ったのですが、そこに“天才・瀬古利彦”がいて、叩きのめされ、打ちのめされ、そこから這い上がらなくてはならなかった。中野さんは指導者になってから、所属企業の倒産や廃部を経験して苦労されてきましたが、私も常にどん底からのスタートでした。ただ、本当に気持ちを込めて、集中して練習すれば、記録は伸びるものだと思いました。

1979年(第55回)箱根駅伝で3区を走る黒木さん。瀬古さんから繋いだタスキをトップのまま死守した。後ろのジープから指示を出している中村監督の姿が見える

運営管理車から歌いたいけれど…

箱根駅伝は3年生のときが3区で区間13位、4年生のときが8区で区間6位でした。

黒木 納得のいく結果を残せなかった分、今こうして作家をやりながら、箱根駅伝の11区を走っている感じです。箱根の借りを返そうと思ってやっている部分はありますね。

 余談ですが、私は生後7カ月で養子に出されて、実の親を知らないまま箱根を走りました。30歳になって知った実の父親は田中久夫といって、明治大学で箱根駅伝の優勝経験がある選手でした。3年、4年で走った区間は、私と同じ3区と8区です。不思議なことがあるものだと思いました。

 私は4年生のときには、7〜8㎞から14㎞くらいまでの間、腹痛が起きて、それを我慢して走っていましたが、残り7㎞くらいだったか、すっと痛みがなくなったので、そこから怒涛の勢いで遊行寺の坂を駆け上りました。中村監督はいつも後半にジープから『都の西北』(校歌)を歌うのですが、中盤ペースが上がらなかったので、それを取り返すのに歌どころではなかったようです。

中野 私も運営管理車から選手に向けて歌を歌いたいのですが、何しろ1分間しか時間がないんですよ。声を掛けられるポイントは、各区間の1㎞、5㎞、10㎞、15㎞、20㎞もしくは残り3㎞、残り1㎞と決められていますが、同乗している役員が各ポイントで1分間しっかりと計っています。短い時間で何を言うのか。シナリオなどありませんし、事前に言葉を考えているわけではないので、ほとんどが思いつきです。6年前の89回大会で4位に入ったときには、アンカーで早稲田と激しく争ったのですが、私は給水をせずにレースを後方から観ていました。(注:当時は監督からの任意の給水が認められていた)あのときは、水を渡せば、まさに「水を差す」ことになると思いながら、見入ってしまいました。選手の背中は同性から見ても惚れ惚れするし、カッコいいんですよね。

2018年の万座温泉での合宿で走り込む選手たち。中野監督は車の中から背中で語られる言葉に耳をすます

夏のアルバイト合宿で大きく飛躍

黒木 中野さんの著書『自分流』のなかにありましたが、帝京大では群馬県の万座温泉で合宿をするときに、選抜メンバーから漏れた選手たちが旅館でアルバイトをしながら別メニューで練習するのですよね。これはすごいと思ったのですが、どういうきっかけで始めたのか、また、屈辱に感じる選手はいないのか、聞かせてください。

中野 始めたのは10年くらい前です。ケガなどで出遅れた選手や、次年度以降に主力になってほしい選手にアルバイトをさせてみることにしました。練習も1日2回しっかりやっています。旅館の従業員と同じ制服を着て従業員の方と同じように働くわけですから、誰でもできることではありません。事前に意思確認もしています。

 このアルバイト合宿を自分が強くなるために必要なものだととらえ、何とかして成果を残したいと思って仕事に取り組む選手は大きく飛躍しますね。その代表格の選手が、高校時代は無名だった酒井将規で、3・4年で箱根に出場しました(84回・85回大会)。卒業後は九電工に進み、2014年の東京マラソンでは2時間09分台で走りました。たいていは下級生が中心ですが、1・2年生で(87回・88回大会)6区を走った田村拓眞は4年目にケガで出遅れ、授業もなかったことから、3カ月間もアルバイトをしました。上級生では箱根を走れませんでしたが、卒業して、日本郵政で頑張って働いている姿を見ると、学生時代の体験が役立っているのではないかと思います。

黒木 そこで強くなるか、ならないかは本人次第ですね。中野さんの著書を読んですごく印象に残ったのは、「神様は、すべての人間に対して決して公平なわけではない」という言葉です。生まれ育った環境や素質、出会った指導者はみんなバラバラで、選手は皆別々のスタートラインから競技生活を始めなくてはならない。私は瀬古さんや金井豊君を見て神様は不公平だと思ったのですが、現実を受け入れて、そこから地道に努力していくしかないと感じました。

中野 選手にレールを敷いてあげれば、指導者は楽ですし、選手も私が敷いたレールに乗ればそれほど失敗しない、ある程度は目的地まで辿り着けます。ただ、それでは彼らの可能性を小さくしていないかと、ここ2~3年は思うようになりました。自分で考えて行動できる学生の方がいいですよね。前に進もうと思うこと、思うだけでなくて実際の行動に移すことが大切です。最近はいい子になりたい学生が多いのか、口に出す前に動く子は少ないです。どんどん、やんちゃになってくれていいと私は思うのですが。

黒木 私の頃の早稲田は中村監督が厳しかったので、みんな大人しかったですよ。でも、今のお話を聞いても、自分で考えることはすごく大事ですね。北海道には私の1つ上に、順天堂の竹島克己さん、駒澤の大越正禅さんなど、箱根駅伝で区間賞を取ったり、インカレで優勝したりするレベルの方々がおられましたが、どうしてそんなに強くなったのかを尋ねると、「自分で考えて、いろいろと工夫しながら練習していた」とおっしゃいました。私は中村監督の言うとおりにやってさえいれば強くなると考えていた。自分には工夫が足りなかったから、インカレの優勝や箱根の区間賞に届かなかったのだと、今は思います。

2019年(第95回)箱根駅伝。4区横井裕仁選手から5区小野寺選手へのタスキリレー。主力の一人としてチームを引っ張ってきた横井選手について、「放っておいても練習するような選手でした」と中野監督

どんな選手でも自己ベストを出して卒業させたい

帝京大で今年の箱根駅伝を走った10人のなかで、“自分流”を持った選手は誰ですか。

中野 3区の遠藤大地、4区の横井、9区の小森、10区の星あたりでしょうか。横井は放っておいても練習するような選手です。遠藤は自分流というより、“勝手流”かもしれませんね。出雲で1区を走ったときは1つだけ、センターライン寄りを走るように伝えました。なぜかというと、「遠藤」だけに「沿道」側を走っていると、前に出たくても出られないからです。全日本と箱根のときは、「自分の思ったとおりに走りなさい」と言いました。横井が遠藤について、「僕が4年間で学んだことを1年で吸収していますよ」と言うくらいですから、これから面白い選手になると思いますし、私が責任を持って強くしたいですね。

黒木 チームの優劣は半分くらいスカウトで決まるように思えるのですが、そのあたりはいかがですか?

中野 ある程度は重要ですが、スカウトがすべてだと言ってしまうと、指導者として情けないですよね。大学は教育の場ですから、教え、育てなければなりません。学生は4年間で変わるものですよ。毎年、夏を過ぎるとずいぶん成長が見られるので、この仕事は面白いですね。どんな選手でも強くしたい、4年間で自己ベストを出して卒業させたい、というのが私のスタイルです。選手をスカウトするときには記録も見ますが、私が注目するのは後ろ姿やアキレス腱、ふくらはぎ、顔の大きさなどです。顔はできるだけ小さいほうがいいですね。走ったときにアキレス腱がきれいに出るか、ふくらはぎが高い位置にあるかも見ます。

最後に、お二人の今後の夢を教えてください。

黒木 今よりも良い作品をたくさん書くことですね。自分が本当に納得のいく作品を書くために、きちんと取材すること。私はひとつの作品を書くのに50人くらいに会いますが、その労力を惜しまないようにして、少しでも長くやっていきたいと思います。

中野 ここまでやってきた箱根駅伝を大切にしたい。黒木さんは私にとって箱根駅伝の先輩だし、私も学生たちにとっては59~62回大会を走っている先輩ですから、箱根駅伝をより良いものにして若者たちに伝えていきたいです。5年後は100回大会です。100回も続くアマチュアスポーツはなかなかないですよね。監督の立場としては、いずれ優勝したいという気持ちはあります。自分流でやりながら、学生たちが幸せになれるようにしていった先に優勝があればいいし、私が蒔いた種で学生たちと一緒にトライしながら、その先に日の丸をつける選手が出ればいいと思っています。

黒木 中野さんにはいつか箱根で優勝してほしいですし、常に帝京大を応援しています。頑張ってください。

1月24日八重洲ブックセンターにて
聞き手/松島茂アナウンサー(文化放送)
構成/石井安里

『自分流 駅伝・帝京大の育成力』(中野孝行著/ベースボール・マガジン社刊)

中野孝行

なかの・たかゆき/帝京大学駅伝競走部監督

1963年生まれ。北海道出身。帝京大学スポーツ医科学センター専任講師。白糠高校卒業後、国士舘大学へ進学。箱根駅伝には4回出場。卒業後は実業団の雪印乳業に進み、選手として活躍。引退後は95年3月から98年まで三田工業女子陸上競技部コーチを務める。特別支援学校の教員を経て、99年8月から2003年にNEC陸上競技部コーチ。05年11月に帝京大学経済学部経済学科専任講師就任と同時に、駅伝競走部監督に。08年より12年連続でチームを箱根駅伝に導いている。今大会では総合5位。特に復路では青山学院大、東海大に続いて3位という成績を収めた。

黒木亮

くろき・りょう/作家

1957年、北海道生まれ。早稲田大学法学部卒、カイロ・アメリカン大学大学院(中東研究科)修士。銀行、証券会社、総合商社に23年あまり勤務し、国際協調融資や航空機ファイナンスなどを手がけ、2000年に『トップ・レフト』で作家デビュー。主な作品は『巨大投資銀行』、『エネルギー』、『鉄のあけぼの』、『法服の王国』、『島のエアライン』など。大学時代は競走部に所属し、箱根駅伝に2度出場。瀬古利彦とタスキを繋いだ。陸上競技選手としての半生を綴った自伝的長編『冬の喝采〜運命の箱根駅伝』は多くの駅伝ファンに愛読されている。

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