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2018-02-27

重傷からの復活へ──。 元王者・宮尾綾香の闘争

文&写真_船橋真二郎 Text&Photos by Shinjiro Funahashi

世界戦のリングで重傷。表舞台から、消えた──

 リングから見上げた照明の明かりが、やけにまぶしかった。あの瞬間を思い返したとき、脳裏に浮かんでくるのは、そんな光景なのだという。

 2016年12月13日、後楽園ホールで行われたWBO女子世界アトム級タイトルマッチ。王座返り咲きを狙い、現役最年長王者の池山直(フュチュール)に挑んだが、思いがけないアクシデントが6回に起きた。

 池山の圧力をかわそうとバックステップした宮尾が突然リングに倒れ込む。スリップではあったが、異変は誰の目にも明らかだった。激痛の中、それでも右ヒザを叩きながら懸命に立ち上がった。

「たくさんの人に来てもらってたし、『こんな無様な姿は見せられない、痛いとか言ってる場合じゃないじゃん、早く立たなきゃ』って。とにかく試合に戻りたい気持ちだけでした」

 だが、それが精一杯だった。いや実際は立ち上がることさえ無理だったのだ。池山に攻め込まれると力なく崩れ、もう立ち上がることはできなかった。

1度は辛くも立ち上がったが…… 写真/小河原友信

試合再開後、すぐに再び倒れ込んで立ち上がれず。タンカで運ばれた 写真/小河原友信

 それから、どのようにリングを降りたのか、ほとんど記憶はないという。記憶が残っているのは病院からだ。

「病院までどうやって行ったのか。入場する前のことも思い出せなくて。とにかく、リングがまぶしかったなって……」

 あれから1年が過ぎた。宮尾の姿は表舞台から消えたままだ。

抜け出せないトンネルをさまようような日々
だが、思いは尽きなかった

 ワタナベジムで久しぶりに宮尾を見かけたのは、昨年のいつごろだろうか。それから何度も姿を見かけるようになったのだが、そのたび右ヒザをしっかり保護している装具が目についた。

 リングを飛び回るような速いステップワークを武器にWBA女子世界ライトミニマム級(アトム級)王座を5度防衛した宮尾にとって、“脚”はボクシングスタイルの象徴でもある。ただ、痛々しい中にも固い決意はひしひしと伝わってきた。

 診断結果は、右ヒザ前十字靭帯断裂。復帰も危ぶまれるくらいの重傷だった。しばらく入院し、退院後も療養を要した。

「練習ができない不安と、このまま体が動かなくなるんじゃないか、という恐怖と……。松葉杖をついて、普段の生活もままならないし、実家に帰って親の世話にもなって。あの一瞬で、こんなことになるとは、と思いましたね」

 再び入院し、手術。そして、長く地道なリハビリ。「闇の中のような、抜けられないトンネルにいるような」日々だった。だが、リングへの思いがぐらついたことは、一度もないという。

 この間、池山戦から年が明けた2月には鍼灸師資格の試験を控えていた。現役生活と並行し、専門学校で勉強してきた集大成だ。セカンドキャリアのためではない。30代を迎えて、自分で自分の体をケアし、まだまだ可能性を追求するためだった。その一心で気持ちを切り替え、手術まで勉強に集中し、「選手生命を長くするための資格」を手にしていた。

 一方で現役続行の思いを口にするのは、気が引けるところがあった。

手術、そしてリハビリ…

 2015年10月、WBC女子世界アトム級王者の小関桃(青木=引退)との統一戦は、力を出し合い、女子の年間最高試合に選ばれる熱戦となったが、敗れた宮尾は3年間、守ってきたベルトを失った。

「チャンピオンのときはあった自信が、ベルトがなくなった瞬間、ガタガタに壊れて。ベルトだけじゃなくて、ごっそり持っていかれたなって。それが、たったひとつ自分が生きている中で誇れることで、それがなければ何もないんだなって」

 このままでは終われない。失ったものを取り戻さなければならない。心機一転、大橋ジムからワタナベジムに環境を変えた。その移籍初戦が池山戦だった。

「このタイミングで、この怪我っていうのが……。さすがに何か言われるだろうなと思いながら。でも、やりたい気持ちをどうやって伝えて、どう説得するか。そのことしか頭になかったです」

 周囲からは、引退を勧められることもあった。だが、あくまで現役を続けるために手術することを渡辺均会長、担当の梅津宏治トレーナーに伝えると「やるなら、それなりの対応をするからと言ってもらえて。本当に恵まれているなって」

 リハビリは少しずつ体重をかけ、文字どおり一歩ずつ歩くことから始まった。気が遠くなるような思いもしたが、少しずつでも前進している手応えが、持ち前のポジティブさを取り戻させていく。
「ベッドの上でできる筋トレとか、リハビリのスタッフの方が、リハビリ以外の自主トレも見てくれて。最後はリハビリも兼ねて、病院中を元気に隅々まで探検してました(笑)」

 1ヵ月の入院生活を終え、再び長野の実家に帰る。それから、さらに4ヵ月、故郷でリハビリと筋トレのため、病院に通い続けた。まだ車の運転もできない。送り迎えは、母が引き受けてくれた。

かつてボクシングを猛反対した母の言葉

 その母とは、ボクシングを始めるときに猛反対された思い出があった。

 小、中、高、短大とバスケットボールに打ち込んだが、小柄な宮尾に常につきまとったのが体格の壁だった。バスケで完全燃焼できなかった分、「自分の人生に何かを残したい」という思いがあった。進路を決めかねていたとき、短大の近くでたまたま見つけたのが、キックボクシングをメインとした格闘技のジムだった。

 すでに目をつけられていたのだろう。ある日、ジムの会長に連れられ、東京にまだJBC(日本ボクシングコミッション)公認前だった女子ボクシングを観に行く。看板選手のライカがメインの興行だったが、何よりもショーアップされたプロのリングのきらびやかさに目を奪われた。勧められるままボクシングをやろうと決めたが、まだジムに通っていることすら、両親は知らなかった。

 実家で母と話し合い、夕方には練習があるため、ひとり暮らしをしていた街に戻る。翌日また実家に帰って頭を下げた。1週間、毎日のように行ったり来たりし、ようやく説得した。

 それからは「ずっと応援してくれた」母だが、大きな怪我を抱えて故郷に帰れば、思い出がよみがえってくる。だが、母はわざと明るく、「脚が取れたわけじゃないんだから、やりなさい」と背中を押してくれたのだと、目に涙を浮かべた。

「最初は、あの演出カッコいいから入ったんですけど(笑)」というボクシングだったが、懸ける気持ちはどんどん強くなっていった。タイの刑務所内で世界挑戦した帰国後、突然ジムが閉鎖になったときは、試合のあてもないまま仲間と3人、公園や路上で練習を続けたこともあった。何のつてもないままカバンひとつで上京し、ジムを決め、住む部屋や仕事を探したのは、マンガ喫茶に寝泊まりしながらだった。

 母の言葉は、たくましく道を拓いていく娘を見守り、誰よりも思いを理解していたからだろう。宮尾にとっては何にも代えがたい支えとなった。

あれから丸1年。ようやく本格練習再開

 帰京し、ジムに復帰したのは昨年の夏。それからもまた我慢の日々だった。

「そのころはまだ動いちゃダメで。装具をつけて、ゆっくりと形だけ。みんなが動いているのに私は動けないのがあって、最初は辛かったですけど、ジムの空気を吸いたかったし、ここにいたほうが心も安らぐので」

 どこか頑なに見えた表情が、柔らかくなったのは12月も後半に入ってから。ようやく医師からOKが出た。本格的にジムワークを再開できるようになるまで結局、丸1年を要した。

「それまでは、(キャンバスの)たるみが怖くてリングに入れなくて、安定した床で止まって打つだけだったのが、リングを動き回ったり、ミットやサンドバッグも思いきり打てるようになって、『楽しいねー』って言いながらやってました(笑)。こんなに長い間できなかったのは初めてだし、ちゃんとボクシングができるようになって、楽しくてしょうがないです」

いまだ装具は欠かせない。が、ジムで動けるのが何よりも嬉しい

梅津トレーナーの持つミットへ、右ストレートを打ち込む

当初こそリングに入ることすらトラウマが邪魔をしたが、すでに払拭。心地よさげに動き回る

 ただ練習に戻るために我慢していただけではない。まだ“止まって打つ”の段階から、梅津トレーナーとともに取り組んできたのが、しっかりパンチを打ち込むこと、そしてボディブロー。いずれも梅津トレーナーが、女子に足りないと感じてきたものを「脚を使う宮尾の良さは生かしながら、強さを加えていきたい」と1から意識づけてきた。

「梅津さんは厳しいですよ。いつも怒られて、半泣きです(笑)。でも、いろんなコンビネーションや動きを教えてくれるし、私ができないから叱ってくれるだけで、今はできないことがあるのが嬉しい」

 後楽園ホールのリングに倒れた日から、思いはずっと変わっていない。とにかく試合に戻りたい、あのまぶしい照明の下に立ちたい──。

 リング復帰は、まだもうしばらく先になる。そのとき、どんな感情になるのかは、まったく想像がつかない。

「対人練習もできるようになって、もう脚に対する不安はないですけど、装具なしでリングに上がったときにどう感じるか。今までは10ラウンド、脚を使えていたのが、体力的にも右脚の負担的にもどうなるか。そういうブランクの不安がどう出るのか……」

 だが、宮尾はすぐにニッコリ笑うと、こう付け加えた。
「でも多分、『試合ができる!』っていう嬉しさで全部忘れちゃってると思いますよ」

リング復帰は未定。それでも、彼女は笑顔を取り戻した

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