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2017-08-14

歓喜の涙を見届けたい<後編>

1年半越しに実現した“ライバル対決”は、チャンピオン佐藤の完勝に終わった 写真/馬場高志

文_本間 暁

 中広大悟(広島三栄)は、暫定王者となっていた佐藤洋太(協栄)に幻惑されて日本王座統一戦に敗北(2010年9月25日)。そして、2012年12月の試合を最後に引退し、現在は妻と子に恵まれ、広島市内の養護施設で働き続けている。広島での興行には必ず駆けつけて、最近は後輩のセコンドも務め、変わらぬ元気な姿を見せてくれている。

 晴れて正真正銘の日本王者となった佐藤。そして、ほぼときを同じくしてOPBF王座を獲得(2011年5月18日)した赤穂亮(横浜光)の激突が、“注目のライバル対決”としてその年8月にセッティングされた。
 大いに話題を呼んだこの顔合わせだが、赤穂の拳負傷のため残念ながらキャンセルとなってしまう──。

 気を取り直して日本王座を5度防衛し、日本最強をきっちり証明した佐藤は、WBC王座へと羽ばたく(2012年3月27日)。赤穂はOPBF王座を3度防衛したところで佐藤のV2戦の相手に選ばれ、幻となりかけた対戦が1年半越しに実現した。

 2012年大晦日に行われたこの試合は、佐藤洋太の独壇場となった。赤穂のスイングをひらりひらりとかわしては、長いリーチを生かしたジャブ、右ストレート。
「赤穂くんに、いつもあった怖さを感じなかったッス」と、独特の言い回しで後に振り返った佐藤は、こんな舞台にもかかわらず遊び心を発揮。自らコーナーを背負って赤穂を誘い、ビッグパンチを敢えて引きずり出して体感する。それでも、まともにはもらわなかった。佐藤洋太の完勝だった。

 初黒星を喫したというのに、控え室の赤穂は意外なほどさばさばとしていた。あのときドローでさえ、むせび泣いていたというのに、「いったいどんなになってるんだろう」と恐る恐る部屋に入ったこちらが拍子抜けしてしまうほどだった。

 翌年5月3日、日本男子として史上初のタイでの防衛を期待された佐藤だったが、厳しい減量と高温室ビニールハウス内のような会場にやられて動けず。シーサケット・ソールンビサイ(タイ)の連打にさらされて陥落してしまう。

 試合をしたわけでもないのに、何リットル流れただろう? というほどの汗をかいた。期待の佐藤が敗れたという寂寥と徒労を抱きながら、ド田舎のシーサケット県から車で7時間移動してバンコクへ戻る。早朝便を待つためだけのホテル泊で、大先輩で師でもある故・春原俊樹記者(ボクシング・ビート誌)と夜通し語り合った。話は『佐藤洋太論』から、“あの試合”へ。

「あいつ、試合前から洋太に勝てると思って試合に臨んだのかなぁ……」
 あいつとはもちろんあの男のことである。「さすが春原さん、鋭いなぁ……」と、エアコンの利きが甘い室内で身震いした。

『ワールド・ボクシング』時代の直の先輩で、背中で取材とは? を教えてくれた人。言葉を交わすだけでもいまだに背筋が伸びるような存在だったから、思わず口ごもってうまく言葉にできなかったが、春原さんとまったく同じことを感じていた身としては、心の内を見透かされているような気になってしまったのだ。

 佐藤洋太はクラスを上げさえすれば、長く長くトップで戦い続けられる選手だったはずだが、キッパリとグローブを置く。そして、現在は故郷・岩手県盛岡市で『焼肉チャレンジャー』の店長として立派に働き、スケボーに虫捕りにカメの飼育……と相変わらずの生活を楽しんでいる。3人の男の子を引き連れる様は、まるでガキ大将のよう。父親然としない姿が、逆に父親らしさを表している。

 そしてひとり、リングに上がり続けているあの男は──。

 持ち前の豪快さと技術習得という狭間で、いまだにもがき続けている。若さに任せた勢いのあったころにはどうにか表出せずに済んだメンタル・コントロールという大きな課題にも直面していた。格下と思われる相手にすら感情を揺さぶられ、とんでもないラフファイトを演じてしまうことも再三である。

野獣のような“アニキ”赤穂と、冷静沈着な“弟分”金子大樹。対照的な“オセロ・コンビ”は、実に魅力的だった 写真/本間 暁

 今年3月に行われた田中裕士(畑中)との日本バンタム級王座決定戦。ただ殴りにいく。頭から突っ込む。相手に背を向け、自らレフェリーに注意をアピールする。「再び日本から──」という姿勢には敬意を持っていたが、試合内容にはガッカリ。レポートは辛辣の極みにせざるをえなかった。

 私的なことで恐縮だが、ちょうどこの試合が始まるころ、闘病中の母親の意識レベルが低下していた。だが、普段なら病院から携帯電話に連絡が入るはずが、この日は一切なし。試合内容に憤慨し、「呑まずにゃいられん!」と、いつもは呑まない酒を呑もうと仲間のライターと店に入り、ビールを注文しようとしたところで、「すぐに病院へ!」と連絡が来たのだった。

 東京駅から最終の快速電車に飛び乗って、深夜に病院にたどり着き、翌日午前、辛くも看取ることができたのだが、病院からの連絡がなぜあのタイミングだったのか、いまだに不思議でならない。
 長年追い続けている赤穂の試合取材を邪魔してはならないという母親の想い、そして無意識の中での看護士への懇願──と勝手に解釈しているのだが、そうして見させてもらった試合がハチャメチャだった……という余計な感情もレポートに入り込んでしまったかもしれない。当方も大いに反省しているのだが、石井一太郎会長、マネージャー(会長夫人)に「よくぞ書いてくれました」と褒め称えられたのが救いだった。いや、そう言えるスタッフこそ貴重で素晴らしい。こちらの真意は、読者を含め、なかなか伝わらないのが通常だが、見事に見抜いてくれているのだから。

早い段階で右拳を痛めていたという赤穂だが、抑えることなく右にこだわり続けた 写真/小河原友信

 表面的に厳しい書き口だったにもかかわらず、赤穂亮ももちろん文句ひとつ言わなかった。「今度はあんな試合しませんから」と臨んださきの初防衛戦では、齋藤裕太(花形)の待ちの戦法に引っかかり、ダウンも喫したし、執拗なローブローの注意にも遭った。ポイントもリードされていた。赤穂のメンタルが崩壊してもおかしくない条件は整っていた。
 けれども、「会長やセコンドの励ましがあって、落ち着きを取り戻すことができた」赤穂は、スタートからテーマとしていたストレート攻撃に活路を見い出し、ローブローの注意を受けた再開後には、必ず左ボディブローを叩き込んだ。ボディを効かせ、ジャブでリズムを取り戻し、必殺の左フックではなく右ストレートにこだわってダメージを与え、逆転ストップ勝ちを収めた。評価を戻したとは言い難い内容だったが、底力、勝負強さはやはり持っている。落ち着きながら、これまでのキャリアでチラチラと見せてきた人の良さも封印した。特に再開後のボディブローにはゾクッとさせられた。

「田中戦と比べてどうでした?」(赤穂)
他人の評価をことさら気にするのはいつものこと。
「あの試合と比べりゃ、そりゃスッキリしましたよ」

 5ラウンド前半にチャンスをつくった赤穂が、そのまま詰めきれていたら、なおよかったが、いつものビッグパンチが空を切る。そして、ジェットコースターのように一転しての大ピンチ……。けれども、そこからの脱出には大いに価値がある。メンタルが課題の男にとってはなおさらだ。今までは、いくらセコンドが落ち着かせようとしてなだめても止まらなかった暴走機関車が、この日はアシストを受けて自力で我に返ったのだから。

 本人はダウンを奪えなかったことに不服そうだったが、試合中に自ら精神バランスを立て直すことができたのは希望の光だろう。

かねてから親交のある、元4階級制覇王者のスーパースター、ノニト・ドネア(フィリピン)は、練習に付きっきり。試合も当然観戦し、労いの言葉をかけた 写真/小河原友信

 豪快にしてとてつもなく繊細な男。顔は怖いと評判だが、実はこちらの従兄(名前も同じリョウ!)にそっくりで怖いと思ったことは1度もない。

 前途はまだまだ困難。それでも、精神的なスランプは、これでようやく脱せるのではなかろうか。

 不思議な魅力を持ったこの男が、歓喜の号泣をする瞬間を見届けたい。
あの控え室での涙を見て以来、それはイチ記者の中に、ほんのり芽生えた想いなのだ。
 もちろん、これまでどおり、ひいき目なしの厳しい眼差しを注いでいくのは言うまでもないが。 

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