なにごとも自分が思い描いたように運べば、この世はハッピー。
こんな楽しいことはありません。
でも、現実はそうそううまくはいきません。
むしろ、突如、計算外のことが起こって「あいたーっ」と天を仰いで
ピシャリと額を叩くことのほうが多いと言えます。
人生は皮肉に満ちている、と言った人がいますが、そうかもしれませんね。
土俵の周りにもそうしたことがよく見られます。
そんなエピソードを集めました。
題して“えらいこっちゃ”――。
※月刊『相撲』平成22年11月号から連載された「泣き笑いどすこい劇場」を一部編集。毎週火曜日に公開します。
高をくくって大慌て昭和49(1974)年名古屋場所と言えば、千秋楽に横綱輪島が史上最年少横綱を目指す21歳2カ月の新鋭、大関北の湖(のち横綱)を“黄金の左”と言われた左下手投げで本割、優勝決定戦と相次いで降し、逆転優勝した場所だ。この闘いは、今でも大相撲史に残る名勝負として語り継がれている。
このとき、輪島陣営ではもう一つの“闘い”が演じられていた。勢いに乗る北の湖の圧倒的有利さがささやかれていた本割の直前、輪島の付け人が、万一の場合に備えて紋付袴を取りに宿舎に走った。パレードには必需品だからだ。
しかし、付け人も、心の中では、そんなこと、起こるはずがない、と思っていたに違いない。会場に戻ってみると、紋付や袴はちゃんと持ってきたが、足袋を忘れていた。そして、そんな付け人たちをあざ笑うかのように逆転劇が進行していったのだ。
さあ、大変。
「いまから宿舎に取りに戻っていてはとても間に合わない。仕方ない、誰かに借りよう」
ということになり、白羽の矢が立ったのが同じ花籠部屋で、輪島の優勝に花を添えるために着替えようとしていた西前頭8枚目の若ノ海だった。
「――というワケでお願いします」
と、若ノ海が履きかけていた足袋を強引にさらい、ヒーローとなった輪島のもとに。輪島は何事もなかったような顔でその足袋を履き、優勝パレードに向かったのだった。
同じような“足袋事件”は昭和41年名古屋場所後、北の富士(元横綱、現NHK解説者)が大関に昇進したときも起こっている。このときの北の富士の直近3場所の勝ち星は8勝、10勝、10勝の合計28勝。大関昇格の当確ラインは、直近3場所、三役で33勝が通り相場だから、とても昇進できる成績ではない。
このため、本人もまさか大関になるとは思っておらず、番付編成会議の日はノンビリと朝寝を楽しんでいた。ところが、当時大関が豊山1人という事情もあり、急きょ、2場所二ケタの北の富士の大甘昇進が決定したのだ。
昇進の知らせが入ると、北の富士は慌てて飛び起き、協会からの使者を迎える準備にとりかかったが、どういうわけか、足袋が見当たらない。部屋の中に同じ文数の力士はおらず、あちこち探しまわった末、たまたま宿舎が近くだった横綱柏戸が同じ文数ということが分かった。
こうして、到着した使者を待たせて借りに走り、なんとか無事に伝達式を終えたのだ。ものが足袋だけに、こんなことが……たびたび起こっては、周囲はたまったものではない。
月刊『相撲』平成24年10月号掲載