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2019-02-08

週プロインタビュー蔵出し! 外国人初のGHCヘビー級王者 エディ・エドワーズ(2017年10月4日号掲載)

 NOAH2・1後楽園で〝革命マント・ヒーロー〟小峠篤司が新たなるパートナーとして指名したのはエディ・エドワーズだった。エディは2005年5月にNOAHの練習生となり、その後も常連外国人選手として主にジュニア戦線で活躍。現在はアメリカでWWEに次ぐプロレス団体「インパクト・レスリング」のトップ選手まで成長し、2017年8月には中嶋勝彦を破って外国人として初のGHCヘビー級王者になった。

 2017年12月を最後にエディが来日する機会はなくなっていたが、NOAH2・24後楽園への電撃来日が決定。しかも、いきなり〝50ファンキーパワーズ〟モハメドヨネ&クワイエット・ストームのGHCタッグ王座に小峠と組んで挑戦する。

 1年2カ月ぶりに待望の来日が決まった記念に、GHCヘビー級王座初戴冠直後におこなった週刊プロレスのインタビュー「AIP.何事もできるAnytihing is possible.」(2017年10月4日号掲載)を蔵出し! 三沢光晴さん時代のNOAHで成長し、世界のトップレスラーの仲間入りを果たしたエディのNOAHに対する思いを感じてほしい。

エディの来日は2017年12月22日、GHCヘビー級王座を拳王に明け渡した一戦以来

道場の掃除や礼儀を通して、
リスペクトの気持ちを学びました

――NOAH道場にいたのはどのぐらい?
エディ 2005年5~7月に3カ月いて、1回アメリカに帰って、またすぐ来て、9月まで3カ月滞在したから5カ月ですね。最初の滞在は試合がなくて、いわゆる練習生だけでした。2回目の滞在から試合も組まれるようになりました。
――なぜNOAHに留学したのですか?
エディ もともとNOAHは好きだったし、憧れだったクリス・ベノワとかクリス・ジェリコが日本の道場で経験を積んでいたんで、是が非でもやってみたかったです。日本のプロレス自体も好きだったから、普通にアメリカのインディー団体に上がって試合をするんじゃなくて、日本のスタイルを学びたかったんです。
――単身で日本に長期滞在するというのもかなりの決心がなければできませんね。
エディ やっぱり言葉が全然わからないし、練習も厳しいし、最初の頃はほとんどついていけなかった。そういう時に周りのみんながどう思ってるのか。「ダメだな。コイツは」とか思ってたのかもしれないけど、それさえもわからなかった。ただガムシャラにやるしかなかったです。
――NOAHにはどうやってコンタクトを取ったのですか?
エディ リューサン(故・仲田龍リングアナウンサー)との縁です。何の保証もないけど、まずは日本で練習してみなさいという感じでした。
――日本の練習は何が厳しかったですか?
エディ アメリカでもデビューはしてたけど、日本の練習は根本的に違いました。アメリカはプロレスラーとしての練習ばかり。スクワット、ブリッジとかはやってこなかったのできつかったです。
――キラー・コワルスキー道場に通っていた頃もやってなかったのですか?
エディ 多少はやりましたけど、準備運動程度です。日本式に基礎体力トレーニングをがっちりとやることはありません。アメリカではいきなりロープワーク、受け身、チェーンレスリングなど実戦の技術を教えてもらいました。日本では森嶋(猛/引退)さん、橋(誠/引退)さん、丸藤(正道)さん、杉浦(貴)さん、KENTAさん(現・イタミ・ヒデオ)、(鈴木)鼓太郎さん、潮﨑(豪)さんたちみんなが合同練習の前に基礎体力トレーニングをやってるので、一緒にやらないといけませんでした。
――その後、平柳玄藩(引退)選手、マイバッハ谷口選手らが入ってきました。
エディ そうそう。日本の練習はリングの中で学ぶことも多いですけど、リング外で学ぶことも多かったです。
――具体的には?
エディ 道場の掃除や礼儀を通して、日本のリスペクトの気持ちを学びました。
――アメリカとは違いましたか?
エディ 違います。アメリカはレスリング・スクールという形式で授業のようにプロレスを教えてもらうケースが多いです。でも、日本はそうじゃなくて、自分で努力をして勝ち取らなきゃいけない。道場の掃除もアメリカなら清掃員を雇いますけど、日本では自分たちの練習場所、先輩の練習場所を常に清潔にしておくというリスペクトの気持ちが大切になります。別にお金を払ってプロレスラーになることが悪いというわけではありませんが、ボクはNOAH道場でやってきたことの方がいいと思ってます。
――2006年4月に3度目の来日参戦を果たしていますが、そこからが普通の外国人選手契約ということですか?
エディ イエス。それを言われた時にはすごく嬉しかったです。努力してきてよかったなと思いました。それから年に2、3回ツアーに呼ばれるようになりましたね。
――その中でバイソン・スミスはどんな存在でしたか?
エディ マイケル・モデスト、ドノバン・モーガン、スコーピオ、ロウキー、リチャード・スリンガー…当時のNOAHにはいっぱい外国人選手がいました。時間の経過とともにさまざまな入れ替わりがありましたが、ボクとバイソンはずっとNOAHに残りました。ボクにとってバイソンは外国人選手のボスのような存在ですね。でも、そこまで堅苦しい関係ではなく、兄貴みたいな存在でした。バイソンがボクの試合を見て「グッドマッチ!」と言ってくれたら、いい試合ができたんだなって思ってました。あと、試合前に背中の毛をよく剃ってあげていました。
――日本で言うと付き人ですか?
エディ そうかもしれませんね。
――アメリカで交流はあった?
エディ ボクは東海岸で、バイソンは西海岸だったので日本だけです。

NOAH2・1後楽園でエディの参戦を発表する〝革命マント・ヒーロー〟小峠

三沢さんやバイソンはボクの人生の一部。彼らと同じ時間を
過ごしたことで、ボク自身の人生観が作られていった

――ROHに参戦し始めたのはいつ頃ですか?
エディ レギュラーになったのは2008年ぐらいかな…その前にもスポットで参戦してたけど。森嶋さん、丸藤さん、KENTAさんがレギュラー参戦しなくなってからだね。
――エディの試合を見ていると、ファイトスタイルの中にかなりNOAHが入っているように思えます。
エディ ボクもそう思うよ。NOAHスタイルは自分に染みついていて、そこにアメリカのスタイルをブレンドしたのがボクのスタイル。そういうのが試合で出るだろうし、ましてGHCヘビー級選手権となれば、よりいっそうにNOAHというイメージが強くなるよね。小橋(建太)さんのチョップ、三沢さんのタイガードライバー、田上(明)さんのダイナミックボム…ボクは練習生の頃からセコンドでNOAHのスタイルをずっと勉強してきました。今でもNOAHの試合を見るようにしてて、日本にいる時は会場のどこかで見てるし、日本にいない時もインターネットで見るようにしてるよ。
――特に練習生の頃に見た試合が強くインスパイアされているように…。
エディ やっぱりセコンドについてた時も、いずれ自分も緑のリングでベルトを懸けて闘いたいなって思いを持っていましたからね。昔は自分の試合が終わったら、大急ぎで着替えてセコンドにつきたかった。それぐらいNOAHの試合を少しでも多く見たかったんだ。
――それだけNOAHのプロレスは学ぶものがあったのですね?
エディ もちろんです。そういったボクがこの目で見てきたものが、今のファイトスタイルにつながってるんだと思うよ。もしも何かが違ったら、こうしてチャンピオンになっていなかったかもしれない。すべてがつながって今に至ってるよね。
――中嶋勝彦戦はどうでしたか?
エディ 痛かった(笑)。中嶋選手のキックで体中がアザだらけだよ。でも、そんな激しい闘いがNOAHのスタイル。勝ってベルトを手にした後はものすごく達成感がありました。自分も中嶋選手も昔はNOAHでヤングボーイとして闘っていたし、どちらもジュニアだった。そんな2人がGHCヘビー級王座を懸けて、後楽園ホールのメインイベントで闘ったわけですからね。
――長編ドラマですね。
エディ GHCヘビー級王者にそんな簡単になれたら、こんな思いにならないし、時間をかけて積み重ねてきたからこそ、これだけ感慨深いんだろうね。ボクの場合はつらい経験やどんなにもがいてもうまくいかないこともあった。契約団体の事情でNOAHへの参戦ができない時もあったしね。NOAHに参戦し始めたばかりの外国人選手がいきなりGHCヘビー級王座に挑戦することもあった。その時は「えっ、なんで?」とやるせなさを感じた。でも、そういうことがあったから、今があるんだと思う。その時はいろいろ悔しい思いもあったけど、すべて無駄なことなんてなかったんだと今は思える。
――近いところで言えば、2017年7月に挑戦したブライアン・ケイジですね。
エディ 今ではその状況をありがたく思うよ。彼はたぶんGHCヘビー級王座にいきなり挑戦することがどれだけすごいことか理解していなかったんじゃないかな。そういう思いの違いなんじゃないかな。
――ブライアンが外国人選手として初めてのGHCヘビー級王者になる可能性もありました。
エディ できれば、中嶋選手が勝ってほしいなって思ってたよ(笑)。外国人選手として初めてのGHCヘビー級王者は絶対に自分しかいない。とにかくそのチャンスがほしかった。もしバイソンが生きていたら、彼がなっていただろうけどね。
――GHCヘビー級王者となった後、バイソンへの思いを語っていました。
エディ 彼が亡くなったと聞いた時は本当にショックだった。ボビー・フィッシュから連絡があったのを憶えてるよ。この業界にいると突然の訃報には慣れてるつもりだったけど、それでもバイソンの急死は驚いた。三沢さんが亡くなった時はバイソンからディーロ・ブラウンに連絡があって、彼から聞いた。その時も言葉で言い表せないぐらいのショックだった。
――そういった悲しみを共有できるのもNOAHの一員だからですね。
エディ それは三沢さんやバイソンはボクの人生の一部だからね。本当に楽しい思い出ばかりだよ。もちろん彼らが亡くなったことは悲しいし、さびしいけど、そういう経験が現在のボクにものすごく大きな影響を与えてくれていて、NOAHへの思いもさらに強くなった。彼らと出会って、同じ時間を過ごしたことで、プロレスラーとしてだけではなく、ボク自身の人生観が作られていったんだと思う。だからこそ、ダイハード・フロウジョンという技も生まれたんだろうしね。

ビデオメッセージで「革命!!」と叫ぶエディ

NOAHは新日本に絶対に負けていない。
新日本と張り合えるぐらいまでしていく

――8・26後楽園の中嶋戦はボストンニーパーティ、バーティカルスパイクという互いの通常のフィニッシュホールドでは勝敗がつかない死闘になりました。
エディ それだけの試合になるってことは最初からわかってたよ。だから、ダイハード・フロウジョンという技も用意していた…2、3日前にふと思いついたんだけどね(笑)。
――三沢さんのエメラルド・フロウジョンとフォームがそっくりです。
エディ ものすごく研究したからね。
――現在、GHCヘビー級王者という実感は沸いてきましたか?
エディ まだボンヤリしてるかな。もしかしたら夢だったのかもしれないなと思うこともあるけど、ベルトがここにあるのを見ると実感してくるよ。たぶんちゃんと実感できるのはチャンピオンとして次の防衛戦に上がった時かな。
――昔の日本武道館で何度も大会をおこなっていたNOAHを知っているエディからすると、現在はさみしい状況ではないですか?
エディ プロレス業界には常に波があって、選手の出入りもあるし、浮き沈みもあるし、状況は常に変わってる。自分が契約してるインパクト・レスリングも今年、TNAから名前や体制が変わったしね。たとえ周りがそうだとしても、自分がやることは一つだけ。リングに上がって、ベストを尽くして、みなさんにいい試合を見てもらう。それしか答えはない。まして、今、自分がチャンピオン。NOAHをよくしていきたいし、よくしていくことしか考えてない。AIP.Anytihing is possible.何事もできる。不可能なことは何もない。
――NOAHの王者として、日本のプロレス界を見てどう思いますか?
エディ 各団体で変化が起こってる。全日本では宮原(健斗)選手が三冠ヘビー級王者に返り咲いたし、新しい世代がトップを取りつつあるよね。すごく楽しみな時代になってきた。もともと日本のプロレス界は好きだったし、常に情報は仕入れて、状況を把握できるようにしてるよ。NOAHの合宿所にいた頃は毎週、週プロを読むことができたけど、今はインターネットで情報を手に入れてるよ。最近、またNOAHに来るようになって週プロを見てると、昔もこうやって見ていたなって懐かしい気持ちになるよ(笑)。
――現在、日本では新日本が好調をキープしていますが?
エディ すごくお客さんが入ってるみたいだし、すごいなって思います。新日本に参戦してる外国人選手に友だちも多いから、ある程度は話を聞いてますよ。でも、NOAHは新日本に絶対に負けていないし、ボクがNOAHをもっとよりよい団体にして新日本と張り合えるぐらいまでしていかなきゃいけないと思ってるよ。
――今後、NOAHをどうやって引っ張っていきますか?
エディ もし可能だったら、海外でも防衛戦をやってみたい。それによって新しい目が向いてくる可能性もあるし、日本でもどんどん新しいファンを取り入れていきたい気持ちもあります。でも、一番は昔、NOAHを見ていたけど、途中から見なくなっちゃったファンを呼び戻したいんだ。昔は三沢さん、小橋さん、秋山さん、田上さんとか素晴らしいスターたちがいたけど、今も今で過去に負けない新しいスターがいっぱいいるから、ぜひとも見てもらいたいな。ボクがGHCヘビー級王者になったことで、昔NOAHを見ていたファンの人たちが少しでも興味を持ってくれたらいいなと思ってるよ。正直なことを言うと、今はインパクト・レスリングと契約してるけど、NOAHとボクとは長い歴史があるから、どうしても思い入れは強くなるのは仕方ないことだよね(笑)。インパクト・レスリングに限らず、別の団体にいても、常に気持ちはNOAHだったよ。さっきも言ったけど、AIP。NOAHを再びあるべきポジションの団体にしてみせるよ。

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